田中正造の足跡
1.民党政治家(1890~1896年)
2.足尾鉱毒問題(1891~1904年)
3.直訴(1901年)
4.谷中村移住(1904~1907年)
5.谷中村家屋強制破壊後(1907~1913年)
1.民党政治家(1890~1896年)
下野の名主の家に生まれた田中正造は、民党政治家として「きれいな選挙」を行おうと意気込み、明治時代には珍しく、衆議院議員選挙での選挙費用を公開するなど、当初からほかの民党政治家とは一線を画す政治家であった。藩閥政府と民党が協力して遂行した日清戦争中も、依然として経費節減、民力休養の主張を展開している。田中は、民党の予算削減(支出抑制)があったからこそ歳入余剰が累積し、その資金によってはじめて、日清戦争の戦費が捻出しえたことをとく一方、このことを論拠として今後とも行政費の節減は可能であると唱えた。
日清戦争前には、壬午軍乱(1882年)、甲申事変(1884年)という朝鮮を巡る日本と清との主導権争いが勃発した。しかし、新聞では清が朝鮮の開化の試みを打倒したという報道がなされたため、当時「脱亜論」を著した福沢同様に、田中もアジア蔑視の考えを持つに到った。田中は、日本を「文明」と捉えたのに対し、中国は「野蛮」であると考えた。中国では盗人が勢をなし、盗人以外は中国人ではないといった有様だと発言している。後の日清戦争においては、中国兵は日本兵の捕虜を虐待していると考えている。そのため、日清戦争を、「支那の盗魂を討」って朝鮮の開化が促進され、「幸いにも此度ノ戦争ニテ正直の日本の魂を磨きたてゝ其価の幾億千万ナルヲシラズ。我特有ノ物産たる日本人ノ魂の光輝ヲ遠く海外ニマデ発端セシ其価実ニ幾千ゾ。」(茨城県における演説草稿 1894年11月19日)と日本人の正直さを海外に示す好機になったと評し、日清戦争は国益にかなっているとした。しかし、その「正直さ」が列強よりも10~20倍の過重な地租にも黙って耐えている農民の存在に関与していると指摘し、地租軽減を主張した。国庫の財源不足を危惧する考えに対しては、現状で毎年の経費節減費が6~700万円、毎年の歳入超過が300万円であり、地租の軽減は900万円に過ぎず、削減は可能と主張した。田中はあくまで農民の立場に立った主張を唱えていた。
2.足尾鉱毒問題(1891~1904年)
足尾鉱毒問題に関しては、当時富国強兵政策のため重化学工業が重要視されていたが、田中は、足尾銅山の鉱毒被害を入念に調査して操業の停止を要求した。田中がその後の全生涯をかけて取り組むことになる足尾鉱毒事件に取り組もうと決心したのには、自伝の「余は下野の百姓なり」に見られるごとく土着の思想が根底にあった。また田中は、幼いころ村の餓鬼大将になり、人をつなぎとめるのに重要なことは「信」だと悟った、と自伝(田中正造昔話)の中で述べている。また、近世前期の惣百姓的名主の責務を果たさなければならないという義務感も持っていた。こうして、田中は鉱毒反対=操業停止の運動にかかわっていく。
田中が考えた操業停止要求の根拠は三つあった。一つ目は、経済的な観点からの要求である。足尾銅山の収益が200万円なのに対し、鉱毒被害地の被害総額は1600万円と計算し、経済的得失から操業存続の理由はないとしている。二つ目は、公共の福祉という観点からの要求である。「多数人民の公益はいかなる場合にも決して一商人の犠牲となるを許さず、一個人の私益を維持せん為に多数の権利財産を奪ふは到底天下の黙過せざる所に候。」と一私人の経済活動のために多数の人々の
田中正造の足跡
1.民党政治家(1890~1896年)
2.足尾鉱毒問題(1891~1904年)
3.直訴(1901年)
4.谷中村移住(1904~1907年)
5.谷中村家屋強制破壊後(1907~1913年)
1.民党政治家(1890~1896年)
下野の名主の家に生まれた田中正造は、民党政治家として「きれいな選挙」を行おうと意気込み、明治時代には珍しく、衆議院議員選挙での選挙費用を公開するなど、当初からほかの民党政治家とは一線を画す政治家であった。藩閥政府と民党が協力して遂行した日清戦争中も、依然として経費節減、民力休養の主張を展開している。田中は、民党の予算削減(支出抑制)があったからこそ歳入余剰が累積し、その資金によってはじめて、日清戦争の戦費が捻出しえたことをとく一方、このことを論拠として今後とも行政費の節減は可能であると唱えた。
日清戦争前には、壬午軍乱(1882年)、甲申事変(1884年)という朝鮮を巡る日本と清との主導権争いが勃発した。しかし、新聞では清が朝鮮の開化の試みを打倒したという報道がなされたため、当時「脱亜論」を著した福沢同様に、田中もアジア蔑視の考えを持...