資料:28件
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アジア史()
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『中国社会を理解するキーポイントの一つに儒教がある。中国の歴代の王朝は儒教をどのように取り扱ってきたのか、具体的事例をふまえて述べなさい』
中国の王朝において儒教が与えた非常に影響は大きいと考えられる。儒家の創始者である孔子は、実力主義が横行し、身分制秩序が崩壊しつつあった周末に魯の国に生まれた。周的な礼の秩序により混乱した社会を周初に復帰させることを目的として、徳治主義を唱えた。人間の愛情(仁)がもっとも強いのは家族愛で、その心を推し広げれば天下は平和になるという政治思想のもとで儒教が生まれた。
孔子の死後、戦国時代に入り孟子が儒家の教えを広めることとなる。孟子は人の性の本質は善であるとする性善説を唱え、有徳者の政治こそ王道政治であるとし、「徳」のない者を打倒して有徳者に交代させることは天意にかなうものとする易姓革命を主張した。
その一方、戦国末には荀子が孟子の性善説に反対し、人間の本性は利欲を求めるものであるとする性悪説を主張する。この悪を規制し善に導くには先賢の設けた「礼」によるより他に方法はないと主張した。この礼による規制を一歩強めて、法により規制すると考えるなら、そのまま法家思想となる。法家思想が儒家の徳治主義を現実にそぐわないものと批判し、信賞必罰の法治主義を主張する。しかし、現に法家を大成した韓非、秦の宰相に李斯がともに荀子の弟子であったことからも、これを物語っている。この中国の法家の理念も儒家に根ざしている点は注目すべきである。
その後、秦朝では始皇帝と宰相の李斯のもと、法家理念の下に国家運営が行われる。有名な思想・学問の統制策である焚書坑儒が行われ、儒学者らが秦朝を批判し、始皇帝が独裁者で刑罰を濫発していると非難し逃亡したとして、咸陽の方士や儒者460人余りを生き埋めにし、虐殺した。しかし、これは漢代以降の儒家が秦朝を批判するために述べたものであり、また、始皇帝の私的な感情からの暴挙であるとも言われている。
漢の初期になると、無為自然を掲げる老荘思想が広がっていく。この老荘の学(道家)は一切人為的な制度として否認し、天地の根本理法の道にまかせていけば、平和な理想社会生まれると説く。
景帝のころ国家の仕組みが固まるにつれて、儒学を学ぶものが多くなってくる。武帝の時代になると、董仲舒の進言から儒学精神のもとに国家運営が行われ、五経博士が置かれ、儒学が政府公認の学問として取り扱われることとなる。また、この時代の儒学の特徴は、官学化した儒学が皇帝の尊厳化の道具となり、儒学各派は競ってこの目的のために奉仕するようになった。即ち、儒学の形式主義化である。次に、学問の世界が儒学に統一され、他の学派も吸収して変質せざるを得なくなった。儒教の多様化である。そして、訓詁学の発達で、訓詁学とは儒学の経典の一字一句の意味を確定することである。
その後、後漢王朝の衰退とともに儒学の権威は衰え、乱世の中では、儒学のようにいかに天下を治めるかよりも、自己保全かつ自己向上のほうに課題が移り、老荘の思想を加味した儒家の解釈が生まれてくる。
また、この魏晋南北朝時代は、仏教が発展した時期でもある。北族の君主は、自民族より文化的に優れた漢人統治のため、それに匹敵する文化人の政治顧問に西域僧を登用し、政治に関与してもらう代償に、教団の組織や布教を求め、それを許可し、保護したためである。混乱期であったことも非常な勢いで発展した大きな理由である。
また、道教の成立もこの頃である。無為自然の法則が、戦国末の神仙思想の貴族社会に広まり、宗教的な体系を整えていった。そして、この
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アジア史
中国
儒教
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アジア史
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アジアの歴史
1854年西欧の圧力により日本が開国して以降、幕府は日本の科学技術が遅れをとっていることに苦しんだ。そこで1868年明治政府が発足すると、日本がアジアから抜きん出て欧米化を進めるため、改革が急速に進められた。内容は富国強兵や廃藩置県、諸制度の欧米化などであった。また明治政府は維新直後、朝鮮と国交を結ぼうとしたが、朝鮮は国書を巡って外交関係を結ぶことを拒否した。
清でも曽国藩・李鴻章らによって洋務運動が進められた。「中体西用」をスローガンとし、中国文化を基盤として西洋の科学技術を取り入れようとした。これによって製鉄所や鉄道が整備された。
このころ、東アジアは冊封・朝貢関係を基調とした独自の秩序を持つ社会だった。周辺諸国は清に使節を派遣して貢物を献上し、皇帝に対して臣下の礼をとった。中国皇帝は周辺諸国の首長に対しその領域の支配権を認知し、また返礼として回賜をすることによって自らの徳を誇示した。周辺諸国が清へ派遣するのは清の軍事的・政治的権力ではなく、皇帝の徳を慕ってのことであるとされていた。清は基本的に周辺諸国に内政の干渉はせず、東アジアは清を中心とする中華思想によってゆるやかに関係を結んでいた。琉球は日本からの統治を受けてはいたが清とも関係を結び、日本はこの関係に加わらなかった。
しかし日本と清の間で個人の交流も始まり、1871年日清修好条規が締結される。内容は国交形式を対等とし、両国が双務的に領事裁判権を認め、関税率を対等に定めることなどであった。当初日本側は清に対して、欧米並みに優越的立場の条約を結んで列強の仲間入りをしようと考えた。これは清に拒否され、結局日本と清の関係は平等なものとしてはじまることになった。
1872年、明治政府は琉球王国を廃止して琉球藩を設置した。清はこれに反発し、琉球と宗属関係を結んでいたとして琉球の領有権を主張した。1879年に日本は琉球に軍隊を派遣して首里城の明け渡しを命じたことで、清の反発は強まった。日本政府は翌1880年に先島諸島の清への割譲を申し出て、アメリカも琉球三分割案などを示したが、清は条約に調印しなかった。
1873年ごろ、日本では朝鮮に対し武力によって開国を迫ろうとする征韓論がわきおこった。西郷隆盛らはまず朝鮮に使節を派遣し開国を勧めようとした。大久保利通らは明治六年政変でこの計画を抑え、以後の台湾出兵で主導権を握ることになる。
1874年、明治政府は台湾出兵を行う。琉球王国は江戸時代には日本との清の間で両属関係にあり、日本で明治政府が成立すると琉球の帰属を巡る政治問題が起きた。1871年台湾に漂着した琉球人54人が殺害されたことを理由に、日本は台湾に出兵した。これは清に対し琉球は日本のものだと示すことにねらいがあった。政府は3000名を台湾南部に派兵。原住民を制圧し、現地の占領を続けた。明治政府は出兵の際に清への通達をしなかったため、清は強く抗議した。イギリス公使ウェードの仲介のもと、全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて清国政府と交渉した。結果、清が賠償金50万両を日本に支払うことと引き換えに、撤兵が行われることとなった。
1875年、日本は江華島事件を起こす。高宗が政権を握ったことに乗じて日本は軍艦を江華島に派遣し、発砲演習をして威嚇した。砲撃戦のすえ日本軍は江華島に上陸、占領した。この事件を契機として、1876年日本に有利な条件で日朝修好条規が締結され、李氏朝鮮は開国した。日本は条約の中で朝鮮を「自主の邦」と表現し、清朝の宗主権を否認した。
1881年、閔妃が実権を握っ
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アジア史
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☆中国の歴史は一面では北方民族と漢民族との闘いの歴史でもあった。北方民族の活動を軸に、両民族が政治・社会・文化のうえでどのように影響しあったかについて、具体的な事例をふまえて述べなさい。
中国の歴史には、遊牧、もしくは狩猟採集を主たる生業とし、万里の長城以北を主要な居住領域とした北方民族と、農耕を主な生業とする漢民族の間で展開された抗争が多く存在する。古くは匈奴から、鮮卑、羯、氐、羌など五胡といわれた諸民族、その後の突厥や契丹、蒙古から満州族にいたるまで、漢民族との抗争は枚挙にいとまがない。
B5・400字換算で約7~8ページ
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アジア史
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アジア史2
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『洋務運動・変法運動・革命運動の特徴および各運動の相違をふまえ、各運動が中国の近代化のなかでどのような役割を果たしたのかについて、述べなさい。』
洋務運動は清朝の封建的な支配を維持し、伝統的な政治・社会体制を守りつつ、西洋の技術・武器を用いて近代工業化を図ろうとする目的であった。それゆえに、洋務運動の思想は中体西用論と呼ばれる。
洋務運動は、近代的な兵器・艦船およびその造船技術の導入がはじまりであった。また、外国との交流や技術の導入にあたり、外国語に習熟した人や技術者・将校を養成するための様式の学校も設立された。列強による侵略が激しくなる中で、軍事力の一層の強化に迫られ、それに関連する運輸・通信・鉱山などの企業を官督商弁(民間資本を導入し、それを政府が監督する)や官商合弁(民間と政府の共同経営)といった形で設立するなどした。
軍事工業以外は官督商弁や官商合弁であったとはいっても、実際は清朝の封建的な支配を維持することが目的である以上、政府・官僚が支配し、営業独占権や免税特権を有するなど、民間資本による、いわゆる商弁企業の進出と発展は抑えこまれた。
洋務運動は近代工業化とはいうものの、軍事中心の色合いが強く、それ自身大官僚による搾取の道具となったため、後の軍閥を生み出す結果となった。また、保守的な中国の伝統、洋務官僚の蓄財や対立、列強の圧力などのため真の富国強兵を実現するには至らなかった。それは日清戦争の敗北が物語っている。ただし、西洋の技術的な面のみ取り込んで旧弊な政治制度・軍制は守ろうとし、合理主義などの西洋の近代思想を取り込むことに失敗したため、変法運動が効果を得ることができなかったとの評価が与えられているが、例えば、製鉄所や鉱山、鉄道の整備など、後代につながる成果を残しているものも多い。
一方、このような列強からの侵略に対抗するには、清朝の封建的な体制を維持して進めるのには無理があるとの考えも生まれてくる。崩壊しつつある専制体制を立憲君主制に改め、富国強兵を行うことが近代国家として生きる道であるとの、いわゆる変法運動の考えである。変法派は議会制度の導入、民間の商工業や農業の保護・育成などを主張した。
時の皇帝の光緒帝は、変法派の康有為の上書にはじまった変法の大綱をもとに、保守派の総帥の恭親王奕訢が亡くなったこともあり、変法の断行に踏み切った。日本の明治維新をモデルとして、皇帝みずから改革を主導し、人材を登用し、民意を政局に反映させ、新設の制度局を中心に政治制度の全面的改革を進めるのである。ここに戊戌の新政がスタートする。しかし、満州貴族を中心とする保守派や洋務派は光緒帝の養母の西太后を擁し、この新政を認めようとせず、反撃の機会をうかがうこととなる。光緒帝が保守派の排斥に乗り出すと、西太后は袁世凱らの武力を背景として、クーデターを決行して光緒帝を幽閉し、みずから訓政と称し政権を掌握する。これにより、清朝の立憲君主制への移行をめざした戊戌の新政は、100日余りで失敗に終わってしまった。戊戌の新政は、短命な改革ではあったが、実行されなかった各種改革案も、クーデターを引き起こした西太后たちによって、再度取り上げられている。また、この改革の失敗は、日本に留学している若者たちに大きな心理的影響を与え、さらに義和団事変で清朝が見せた醜態は、政権交代の必要性を強く感じさせるに至った。こうした中、あくまで清朝を封建的な体制を維持しつつ、中国を危機から救おうとする勢力もあったが、一方では孫文・黄興・唐才常・宋教仁らは清朝が既に政権担当能力を失っているものと
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アジア史1
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(b)北方民族と漢民族の相互影響について
⇒中国史における北方民族の進入は周の時代、幽王の時期にすでにあり、周は前770年に遷都している。その後、北方民族は春秋戦国時代を経て勢力を拡大してきたが、秦の始皇帝時代には扶蘇、蒙恬らが匈奴を北方に駆逐しオルドスを回復している。さらに戦国時代に築いた防壁を延長し、遼東から臨洮に至るまでの長城を作り上げた。
秦の時代には勢力が衰えた匈奴も冒頓単于の台頭により、パミール高原以東のモンゴル平原をほぼ征服する。これは東アジアにおける最初の遊牧民族による統一国家であり、ここに漢と匈奴という農耕と遊牧の2大統一国家の対立を迎えることになる。漢の高祖は当初武力による解決を図っていたが、匈奴に屈辱的な敗北を喫し、それ以後は漢からの貢物や公主を単于に嫁がせることによって平和の維持を図った。
漢が建国された後、約70年はこのような状態が続いたのだが、武帝が即位すると彼は匈奴と再び決戦を挑むことにし、漢と匈奴の連年にわたる戦争が始まることとなる。武帝は匈奴の弱点は人口が少ないこと、食糧の安定自給が困難であること、また、長所は強力な騎馬隊であることを分析し、中国から
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アジア史2
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(d)清朝政府が列強に奪われた諸権益
⇒アヘンの密輸による清国内からの銀の流出とアヘンによる風紀上・衛生上の問題から起こったアヘン戦争であったが結果はイギリスの勝利となり1841年、清朝は南京条約を締結した。内容は、上海・広州・寧波・厦門・福州の開港、香港の割譲、2100万ドルの賠償金、公行の廃止、関税の設定などである。この条約にはアヘンに関する事項がなかったため、アヘンの密輸入は戦前よりも多くなった。そればかりか、1843年には虎門条約が結ばれ、南京条約に領事裁判権・片務的最恵国待遇などの条項が追加されることになった。さらに翌1844年にはアメリカとの間に望厦条約、フランスとの間に黄埔条約が結ばれた。二つの条約の内容は南京条約とほぼ同じ内容で、1847年にはスウェーデン、ノルウェーとの間に広東条約が成立した。このような不平等条約の下で中国はイギリスを中心とした近代資本主義世界市場の中に組み込まれていき独立した王朝体制の下の封建社会から半植民地社会へと変質し始めた。
アヘン戦争後、イギリスの工業製品の対中国輸出は思うように業績が伸びなかった。そのため、開港場の増加や、アヘンの自由
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アジア史第1設題
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中国社会を理解するキーワードの一つに儒教がある。中国歴代王朝は儒教をどのように取り扱ってきたのか、具体的事例をふまえて述べなさい。
儒教とは春秋時代の孔子により大成された哲学・思想である。孔子は、周の時代の厳しい身分制度によって保たれていた秩序の回復を目指し、「仁」と「礼」を重視した。仁とは、親子の愛情を基底とする他者への親愛の情である。礼とは、仁の気持ちを形にしたものである。孔子は同時代の武力による支配を非難し、この仁と礼を持った支配者が、徳を持って統治するべきだとした。
儒教の思想は統治者にとって、統治の方法としては都合がよく、様々な学派に分かれながらも春秋時代以降も採用されていくこととなる。本論では時代ごとに儒教の取り扱われ方について、その特色や他思想・他国への影響も踏まえつつ論ずる。
【戦国時代】
孔子の死後、儒学は八派に分かれることとなるが、その中で現在まで有名なのが孟子と荀子である。
孟子は性善説を唱え、徳を持っていない統治者に対しては革命を起こすことも厭わないとした過激な思想であったため、魏・斉・宋・魯などで遊説して回ったが、その言説は君主には受け入れられなかった。
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