現代では医学が発達していくにつれ、飛躍しすぎた技術に対して疑問や矛盾が生じ、生命倫理をめぐる新たな問題が生まれてきている。そうして生まれてきた生命倫理の問題の中から「死」について議論する。その際に、頻繁に取り上げられながらも、個人間、国家間でも意見の違いが顕著に表れている「安楽死・尊厳死・治療停止」というテーマに着目した。特に、「安楽死は合法化されてよいか」という議論について、個人の立場(賛成派・反対派)、国家の立場(アメリカ・オランダ・ベルギー・スイス・日本)を明らかにしながら、そこから見える「耐え難い苦痛」と「自己決定権」の判断基準がどうあるべきかを論じていく。
まず、個人の立場としての安楽死について考えるために、ディベートでよく議論される安楽死賛成派と反対派の議論を見ていく。
賛成派の主張の一つは、患者が自分の人生の終え方にも自己決定権を持っていて、その選択肢の中に安楽死も認められるということである。これに対して、反対派は患者が他者からの圧力を受けることで自己の意思決定に影響を及ぼすと反論している。また、自己決定権については、自分の体をどうするかは自分の勝手だと考えていて、自己中心的考え方であると主張している。賛成派はこれを最終的に判断するのが個人であり、決断するまでには当然、他人の考えに影響されうると、反対派の意見を取り込みながらも、この場合においての自己決定権は有効であるとした。
賛成派の二つめの主張は肉体的もしくは精神的に耐え難い苦痛を今現在かかえている、もしくは、将来抱えうる病状となる場合においては、安楽死が苦痛を除去する手段となるため、医学的処置の一つとして合法的に認めるべきということである。しかし、反対派は安楽死が苦痛の除去とともに、患者の持つ喜びや楽しみなどの感情を奪ってしまうことになると主張している。賛成派は患者の持つ感情について、耐え難い苦痛を持つ患者にとって喜びや楽しみという感情は見つけられにくいものであると補足したが、個人個人の病状や気持ちの持ち方に違いがあるため一概には言えないのが現実である。
賛成派のもう一つの主張は、もし合法化されても、安楽死というのは死に方の一つの選択肢に過ぎないのであり、安楽死を望む人のために法律として選択肢を設けておくのはもっともなことであるということである。反対派は合法化が患者に容易に安楽死を選択させてしまうことにつながるのではないかということを危惧しているが、医師としっかりとしたインフォームド・コンセントを行い、家族とともに熟慮したうえで決定するため、容易に安楽死が行われることはないというのが賛成派の反論であり、合法化する条件として、厳しい決定プロセスが布かれなければならないことを示している。
このほかにも反対派は合法であるとはいえ、人を殺すということは医師に精神的な苦痛を与えることになることや、「耐え難い苦痛」の判断が一体どこまで可能なのかという疑問を投げかけ、安楽死を合法化することには依然、多くの問題点があることを強く主張している。
次にそれぞれの国家の立場を見ていくことにする。
はじめにアメリカの立場について示していく。アメリカでは安楽死に関する法律の制定は州ごとに異なり、尊厳死は20世紀初頭から、自然死は20世紀後半から法制化されている州があった。しかし、この法律には後に肉体的または精神的苦痛が予想される病気(アルツハイマーやALS(筋萎縮性側索硬化症)やエイズなど、現在の医学では根本的な治療が不可能で、将来的に末期状態となりうる病気のことを指す)を持つ患者が安楽死を希望また
現代では医学が発達していくにつれ、飛躍しすぎた技術に対して疑問や矛盾が生じ、生命倫理をめぐる新たな問題が生まれてきている。そうして生まれてきた生命倫理の問題の中から「死」について議論する。その際に、頻繁に取り上げられながらも、個人間、国家間でも意見の違いが顕著に表れている「安楽死・尊厳死・治療停止」というテーマに着目した。特に、「安楽死は合法化されてよいか」という議論について、個人の立場(賛成派・反対派)、国家の立場(アメリカ・オランダ・ベルギー・スイス・日本)を明らかにしながら、そこから見える「耐え難い苦痛」と「自己決定権」の判断基準がどうあるべきかを論じていく。
まず、個人の立場としての安楽死について考えるために、ディベートでよく議論される安楽死賛成派と反対派の議論を見ていく。
賛成派の主張の一つは、患者が自分の人生の終え方にも自己決定権を持っていて、その選択肢の中に安楽死も認められるということである。これに対して、反対派は患者が他者からの圧力を受けることで自己の意思決定に影響を及ぼすと反論している。また、自己決定権については、自分の体をどうするかは自分の勝手だと考えていて、自己...