アジアの歴史
1854年西欧の圧力により日本が開国して以降、幕府は日本の科学技術が遅れをとっていることに苦しんだ。そこで1868年明治政府が発足すると、日本がアジアから抜きん出て欧米化を進めるため、改革が急速に進められた。内容は富国強兵や廃藩置県、諸制度の欧米化などであった。また明治政府は維新直後、朝鮮と国交を結ぼうとしたが、朝鮮は国書を巡って外交関係を結ぶことを拒否した。
清でも曽国藩・李鴻章らによって洋務運動が進められた。「中体西用」をスローガンとし、中国文化を基盤として西洋の科学技術を取り入れようとした。これによって製鉄所や鉄道が整備された。
このころ、東アジアは冊封・朝貢関係を基調とした独自の秩序を持つ社会だった。周辺諸国は清に使節を派遣して貢物を献上し、皇帝に対して臣下の礼をとった。中国皇帝は周辺諸国の首長に対しその領域の支配権を認知し、また返礼として回賜をすることによって自らの徳を誇示した。周辺諸国が清へ派遣するのは清の軍事的・政治的権力ではなく、皇帝の徳を慕ってのことであるとされていた。清は基本的に周辺諸国に内政の干渉はせず、東アジアは清を中心とする中華思想によってゆるやかに関係を結んでいた。琉球は日本からの統治を受けてはいたが清とも関係を結び、日本はこの関係に加わらなかった。
しかし日本と清の間で個人の交流も始まり、1871年日清修好条規が締結される。内容は国交形式を対等とし、両国が双務的に領事裁判権を認め、関税率を対等に定めることなどであった。当初日本側は清に対して、欧米並みに優越的立場の条約を結んで列強の仲間入りをしようと考えた。これは清に拒否され、結局日本と清の関係は平等なものとしてはじまることになった。
1872年、明治政府は琉球王国を廃止して琉球藩を設置した。清はこれに反発し、琉球と宗属関係を結んでいたとして琉球の領有権を主張した。1879年に日本は琉球に軍隊を派遣して首里城の明け渡しを命じたことで、清の反発は強まった。日本政府は翌1880年に先島諸島の清への割譲を申し出て、アメリカも琉球三分割案などを示したが、清は条約に調印しなかった。
1873年ごろ、日本では朝鮮に対し武力によって開国を迫ろうとする征韓論がわきおこった。西郷隆盛らはまず朝鮮に使節を派遣し開国を勧めようとした。大久保利通らは明治六年政変でこの計画を抑え、以後の台湾出兵で主導権を握ることになる。
1874年、明治政府は台湾出兵を行う。琉球王国は江戸時代には日本との清の間で両属関係にあり、日本で明治政府が成立すると琉球の帰属を巡る政治問題が起きた。1871年台湾に漂着した琉球人54人が殺害されたことを理由に、日本は台湾に出兵した。これは清に対し琉球は日本のものだと示すことにねらいがあった。政府は3000名を台湾南部に派兵。原住民を制圧し、現地の占領を続けた。明治政府は出兵の際に清への通達をしなかったため、清は強く抗議した。イギリス公使ウェードの仲介のもと、全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて清国政府と交渉した。結果、清が賠償金50万両を日本に支払うことと引き換えに、撤兵が行われることとなった。
1875年、日本は江華島事件を起こす。高宗が政権を握ったことに乗じて日本は軍艦を江華島に派遣し、発砲演習をして威嚇した。砲撃戦のすえ日本軍は江華島に上陸、占領した。この事件を契機として、1876年日本に有利な条件で日朝修好条規が締結され、李氏朝鮮は開国した。日本は条約の中で朝鮮を「自主の邦」と表現し、清朝の宗主権を否認した。
1881年、閔妃が実権を握っ
アジアの歴史
1854年西欧の圧力により日本が開国して以降、幕府は日本の科学技術が遅れをとっていることに苦しんだ。そこで1868年明治政府が発足すると、日本がアジアから抜きん出て欧米化を進めるため、改革が急速に進められた。内容は富国強兵や廃藩置県、諸制度の欧米化などであった。また明治政府は維新直後、朝鮮と国交を結ぼうとしたが、朝鮮は国書を巡って外交関係を結ぶことを拒否した。
清でも曽国藩・李鴻章らによって洋務運動が進められた。「中体西用」をスローガンとし、中国文化を基盤として西洋の科学技術を取り入れようとした。これによって製鉄所や鉄道が整備された。
このころ、東アジアは冊封・朝貢関係を基調とした独自の秩序を持つ社会だった。周辺諸国は清に使節を派遣して貢物を献上し、皇帝に対して臣下の礼をとった。中国皇帝は周辺諸国の首長に対しその領域の支配権を認知し、また返礼として回賜をすることによって自らの徳を誇示した。周辺諸国が清へ派遣するのは清の軍事的・政治的権力ではなく、皇帝の徳を慕ってのことであるとされていた。清は基本的に周辺諸国に内政の干渉はせず、東アジアは清を中心とする中華思想によってゆ...