「幸福と理性の関係について」
人は常に幸福であり続けたいと思い、いつも幸福を探し求めている。しかし、捜し求めている幸福は人それぞれ違い、同じことが起こってもそのことを幸福と感じる人もいれば、逆に不幸だととらえる人もいるだろう。
例をあげるなら、仕事がしたくてもできない人にとって、毎日忙しそうに働いている人たちのことを幸福な人たちだと思うだろう。しかし、毎日忙しく働いている人たちの中には疲れが溜まっていて休みたいと思っている人もいる。その人にとってはたまにある休みが幸福なのである。
しかし、幸福とは同じ繰り返しの毎日の中にもあると思う。幸福の大小も人それぞれ違うが、疲れて家に帰ってきた時温かいご飯や温かいお風呂が用意されていたら些細なことだが幸福と感じることができる。
つまり、幸福は身近なことであり、誰でも感じることができることだと思う。
では、今まで幸福論を唱えた人々の考えを述べていきたいと思う。
まず、エピクロスの幸福論について述べていく。エピクロス自身は何に最上の快(幸福)をみいだすのであろうか。それは、「身体的に苦痛がないことと、心が平静であること(アタラクシア)」である。このことを「静止した快」や、「永続する快」とよんでいる。つまり、どんな快であれ、それを受けおさめて自分のものにするのがよいとしている。しかし、エピキュリアンと呼ばれている享楽主義者ではない。
もし、ある快を味わうことで、後に身体に苦痛があるのならその快は味わうべきではないが、一時的な苦痛があっても結果的に身体の無苦や心の平静さが得られるならばそれを引き受けるべきである。
またエピクロスは、「思慮」と「自足」を重視している。それは、快の選択には思慮の働きが必要であり、無苦や心の平静さを得るためにはつつましい自足した生活のうちにみいだされると考えたからであろう。
世間との交渉によって心が乱されることを避けるため、心の平静さは、決して無理をしないで自然に従った簡素な生活のうちに達成されるものである。このことをエピクロスの有名な警句で「隠れて生きよ(ギlathebiosas)」とある。これはエピクロスの考えを象徴しているといえる。
では、ストア派の開祖ゼノンはどのような思想を持っていたのだろうか。ゼノンは自然に従って生きることであると考えた。つまり、「自然と整合的に生きること。」であった。これは、人間は動物とは違って自然本能的に衝動を統御する理性がそなわっているので自然に従うということは、「理性に即して生きること。」ということになる。理性が示す理法(ロゴス)は、自然全体として支配している。そして、これに従って生きることが自然と整合的に生きることにほかならない。つまり、ストア派が人間の「徳」とよぶのは、人間の魂が自然と理法と整合している状態のことである。
アリストテレスは幸福論についてどのような考えを持っていたのだろうか。
アリストテレスは、人間は理性をもつことによって他の動物から区別されるので、人間は人間に特有は理性能力をよく発揮して生きることにより、人間であるふさわしい善い生き方を送ることができるのである。しかし、人間が理性能力を発揮できなければ、人間らしい善い生き方とはいえないのである。
こうして、「人間の本性」に注目し、そこから「人間らしさ」という考えを導き出した。人間が理性を働かせないで、動物と同じように感覚や欲求にみを委ねて生きるという生き方は、人間的な生き方とはいえず、動物的な生き方である。つまり、その限りで「非人間的」な生き方である。動物がそのような生き方
「幸福と理性の関係について」
人は常に幸福であり続けたいと思い、いつも幸福を探し求めている。しかし、捜し求めている幸福は人それぞれ違い、同じことが起こってもそのことを幸福と感じる人もいれば、逆に不幸だととらえる人もいるだろう。
例をあげるなら、仕事がしたくてもできない人にとって、毎日忙しそうに働いている人たちのことを幸福な人たちだと思うだろう。しかし、毎日忙しく働いている人たちの中には疲れが溜まっていて休みたいと思っている人もいる。その人にとってはたまにある休みが幸福なのである。
しかし、幸福とは同じ繰り返しの毎日の中にもあると思う。幸福の大小も人それぞれ違うが、疲れて家に帰ってきた時温かいご飯や温かいお風呂が用意されていたら些細なことだが幸福と感じることができる。
つまり、幸福は身近なことであり、誰でも感じることができることだと思う。
では、今まで幸福論を唱えた人々の考えを述べていきたいと思う。
まず、エピクロスの幸福論について述べていく。エピクロス自身は何に最上の快(幸福)をみいだすのであろうか。それは、「身体的に苦痛がないことと、心が平静であること(アタラクシア)」であ...