1815年来のウィーン体制の維持に、オーストリア宰相クレメンス・メッテルニヒが目を光らせており19世紀ヨーロッパを席捲した民族主義、自由主義の波及を食い止めていた。しかし、1848年フランスのパリで2月革命が勃発し、その影響は中欧にまで伝播する。
まず、3月3日、プレスブルクのハンガリー議会において、ハンガリー人政治家の指導者ラヨシュ=コシュートが立憲主義的な国家形態とハプスブルク帝国における民族の自由を要求する演説を行う。続いてハプスブルク帝国領内の諸民族が、民族自治権や、民族諸権利の要求、憲法の制定を求めて立ち上がった。同年3月11日、プラハの聖ヴァーツラフ広場において民衆の集会が行われ、チェコ人とドイツ人の市民からなる委員会が設置される。ここでは、市民的自由に関する皇帝への請願書が起草され、ウィーンに持参した。同年3月13日、ウィーンでも革命が起こる。この内乱はメッテルニヒには手のうちようがなく、皇帝フェルディナント1世はメッテルニヒを罷免することを決意し、メッテルニヒはイギリスへと亡命する。ウィーンの内乱はさらに広がり、4月には、皇帝は憲法の導入、二院制の帝国議会の開設を約...