国際関係研究Ia/Ib
10 Jan 2007
中世修道制度における年少者
I. 初期中世の修道制と年少者
したがって、かなり早くからこのような年少者の存在の事例にはこと欠かない。「イギリス教会史」を著した聖ベーダ・ヴェネラビリス(673-735)はその第5巻24章において、7歳のときに「親族の配慮」で修道院に入り、19歳で助祭に、30歳で司祭に叙せられた、と自ら語る。なおイギリスでは9世紀まですべての修道院はベネディクトゥス派であった。 12世紀のサヴィニーでは、12歳以下の少女は入会を許されず修練期は19歳からと決まっていたが、かなり融通が利いたようだ。パリ郊外のサン・アントワーヌ・デ・シャンにおいては、修道院長が「思慮分別のつく年齢」を8歳としている。 このように年少者が修道士として生活する習慣は、かなり後まで続いている。1602年のポール・ロワヤルにおいては、修道誓願の年齢が制限されていたはずだが、11歳にもなっていない少女に18歳と「偽って」大修道院長の地位が授けられている。
国際関係研究Ia/Ib
10 Jan 2007
中世修道制度における年少者
I. 初期中世の修道制と年少者
修道院に年少者が存在していたという証言は、かなり古くから存在している。
聖ベネディクトゥスによりラテン教会において修道院制度が整備されたときには、すでに年少者が修道士として認められていた。聖ベネディクトゥス自身が起草した「戒律」の30および37章には、修道院に捧げられた子供が存在していたことを示している。
したがって、かなり早くからこのような年少者の存在の事例にはこと欠かない。「イギリス教会史」を著した聖ベーダ・ヴェネラビリス(673-735)はその第5巻24章において、7歳のときに「親族の配慮」で修道院に入り、19歳で助祭に、30歳で司祭に叙せられた、と自ら語る。なおイギリスでは9世紀まですべての修道院はベネディクトゥス派であった。 12世紀のサヴィニーでは、12歳以下の少女は入会を許されず修練期は19歳からと決まっていたが、かなり融通が利いたようだ。パリ郊外のサン・アントワーヌ・デ・シャンにおいては、修道院長が「思慮分別のつく年齢」を8歳としている。 このように年少者が修道士として生活する習慣は、かなり後まで続いている。1602年のポール・ロワヤルにおいては、修道誓願の年齢が制限されていたはずだが、11歳にもなっていない少女に18歳と「偽って」大修道院長の地位が授けられている。
II. 中世における修道院制度の社会的役割
中世を通じて存在したこのような年少修道者の存在は、どのような社会的背景から生じたといえるだろうか。ルドー・J・ミリスは修道院という終身独身制度が、貴族階級の人口調整機能を担ったと指摘する。「貴族階級のメンバーの三分の一から四分の一が修道上の独身主義の殉じたり、宗教上やむを得ず子孫を残さない境遇に身を置いていたということである。・・・貴族階級はその一族の一部に結婚を放棄させることによって一族全体の人員を調整し、その結果として、没落の危険性を回避する見事な手段を見つけたのである。」 修道院ははじめ、入会数を制限することを通して貴族階級にしかこの「先延ばしされたバースコントロール法」を許さなかったが、後に下層貴族階級、豪農、都会人に拡大された。
III.
このような人口調整機能を合理的に遂行する「 」という制度が存在したこともまた見逃せない事実である。これは両親が子供を、通常5歳から7歳のうちに修道院に与えるものであった。この例としてオルデリック・ウィタリスをあげられる。彼は1075年にフランス人の父とイギリス人の母の間にメルシャンの田舎で生まれ、10歳でノルマンのサン・テヴルーに引き取られた。このような児童奉献の習慣は、子供の自由意志を無視していると批判を受けながらも、13世紀まで続いた。
IV. 宗教改革と修道誓願
このような少年による修道生活や修道誓願について、宗教改革者たちは批判を加えた。
ルターの戦友であったメランヒトン(1497-1560)は1530年のアウグスブルグ信仰告白第27条において、「男の子も女の子も生計のために修道院に投げ込まれる」という現状を批判し、「多くの人は、このような危険な問題において、教会法がまったく考慮されていないことを嘆いた」といった。さらに、ほとんどの修道士が終身童貞の過酷さを熟慮できる年齢より前に修道誓願をしているという現状にふれ、「いくつかの教会法や教皇の法令は、十五歳以下になされた誓願を無効としている。(中略)ほかのある教会法は、人間の弱さに対応してもう何年かを加えている。すなわちそれは十八歳以下の者が修道誓願することを禁じている。だから大部分の者には修道院を去る理由と根拠があることになる。なぜなら、かれらは大部分十八歳以下の子供のときに修道院に来たからである。」としている。
このように年少者に修道誓願させることによる修道院の堕落は、宗教改革者の教会批判の重要なポイントのひとつでもあった。
V. 対抗宗教改革における批判
ローマ・カトリック教会内部における改革者たちも同様の見解を持っていたことが伺える。1937年に枢機卿および大司教がパウルス3世教皇に建白した「教会改革建議書」を見ると、明らかに修道院の中に年少者がいたことは認知され、それが元でさまざまの修道院の堕落が生じていると考えていたようである。そこで名をあげられているのはフランシスコ会の穏健派(コンヴェントゥアル派)であり、「すべて廃絶」し、「よき修道者たちがこれに代る」べきであると考えている。さらに「誓願をまだ果たしていない年少者たちは、全員彼らの修院から退去」されるべきであるとしている。(実際には過激な改革を避ける判断がされたため、コンヴェントゥル派は排除されなかった。)
子供を修道院に入れる中世からの習慣が、明確に禁止されたのはトリエント港会議第25会期においてである。
参考資料:
「アウグスブルグ信仰告白」 石井正己訳 聖文社 1979年
「ベーダ イギリス教会史」 長友栄三郎訳 創文社 昭和40年
「宗教改革著作集 13 カトリック改革」 澤田昭夫他訳 教文館 1994年
「宗教改革著作集 14 信仰告白・信仰問答」 徳善義和他訳 教文館 1994年
ルイス・J・レッカイ 「シトー会修道院」 朝倉文市・函館トラピスチヌ訳 平凡社 1989年
ルドー・J・R・ミリス 「天使のような修道士たち―修道院と中世社会に対するその意味―」 竹内信一訳 新評論 2001年
ミリス p.342
長友訳 p.455-456
レッカイ p.457
レッカイ p.461
ミリス p.162-3
ミリス p.170
ミリスp.338-45, 347
石居訳 p.54-64
「宗教改革著作集13」p.319, 437-8
「宗教改革著作集 14」p.569