新優生学とジェンダー
果たしていわゆる出生前診断において、胎児が障害をもつ場合(あるいは同性愛傾向や性同一性障害と置き換えることも可能であるが)、中絶が許されるか、という問題について、ジェンダー論の立場からはどのような答えが可能なのだろうか。
このような場合に中絶を許容する考えは、新優生学と呼ばれる。優生学(eugenics)といえば、ナチス・ドイツが推進した、健全なる国民の名のもとに、障害者や同性愛者など、政権により劣位にあるとされた形質の遺伝子を根絶するという、今では悪名高き思想である。しかし、ここで言われているのは、個人の「自由な」自己決定に基づく、あるいはそれを尊重するためのものである。従って、国家によるのでなく、個人の意思決定に基づくなら、優生学は正当化されるか、と問題を言い換えることもできる。
この場合、自己決定の主体となるのは、生む性としての「女性」である。(なお私はMTFトランスジェンダーとして、妊娠するというより妊娠させる側の身体を持つ、従ってこの問題については当事者ではないことは予めお断りしておく。)なにゆえに自己決定ということが主張されるかといえば、障害をもつ子を養育する負担が「女性」に集中するため、この負担を回避するという自己決定を認めよ、というのである。 もっともこういう主張には当然批判がある。障害者の存在を抹殺する自由が、「女性」にはあるのか、障害者嫌悪ではないか。この問題は、「女性」対「障害者」というマイノリティ同士の対立を惹き起こすかのように見える。
この点、「自己決定権」ということを、今一度定義し直しておくと、他者の権利を害しない限り、いかなる選択を行うことも自由であり、また特定の選択を強制されることがない、ことである。 とすれば、生まれ来る子の命を犠牲にするのだから(胎児はまだ人ではないのだから、という議論はさて置いて)、あるいは障害者の存在を否定するものだから、自己決定の自由は認められない。そういう結論でよいのか。いや、それなら人工妊娠中絶は一般的に胎児の命を奪うのだから、障害の問題を持ちだすまでもなく、答えはノーということになる
しかし、果たしてこのような論理で、「女性」の側に「障害者」を養育するという「不利益」を押しつける、という結論を導いてよいのだろうか。もちろん、「女性」と「障害者」を比較した場合、「障害者」の方が社会的に劣位に立つことが多いから、負担は正当化される、という見解もあろう。しかし、このような一般化が、常に妥当であるとは限らない。 そもそも、この場合に「女性」の側から自己決定の自由が叫ばれたのは、「女性」が当然に、「障害者」を産み、育てるという選択を強いられることが、産まない性である「男性」に対して不均衡だ、ということだったはずである。もちろんたまたま障害をもつ子を持つことがなかった女性というのも比較の対象となりうるが、従来のジェンダー論からすれば、そういうことが言われてきた。
もともと自己決定論は、社会のおける権力構造において、マイノリティにあたる者が、マジョリティの側のパターナリスティックな介入に対して、自律を主張することに意義があった。そのため、ここでの「女性」の立場からの主張は、一義的に不当とはいえない。むしろ、ここで問題にされているのは、この「女性」に産み育てるという選択を迫る不均衡である。すなわち、育児を女性だけの役割とするような社会制度や、慣習からくる不均衡である。さらに言えば、その当事者に、自らの自由か子の尊厳かという、どちらを選択しても不利益になるような、他の者には突きつけられることのない問いへの答えを迫るそれである。あるいは、選択をすることによる自己責任を迫るそれである。このような、ジェンダーの不均衡が問題にされていたはずである。
反対に、このようなことも言える。障害をもつ子を受け入れるという選択が、一般に不利益であると考えられるのは、社会がいわゆる健常者中心に構築されているという、不均衡があるからである。これは、社会資本や福祉制度、周囲の偏見、当事者自身の偏見によるものすべてを含む。 このような二つの不均衡を見ずして、単に自己決定かそうでないか、という議論はほとんど意味をなさない。それどころか、当事者個人に選択に対する責任を押しつけるだけの、不毛な議論になりかねない。
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