「区別」と「差別」を区別する

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    「区別」と「差別」を区別する
     「 戸籍訂正とジェンダーフリー 」を拝見しました。
     私の考えでは、戸籍訂正問題とジェンダーフリーと絡めて論じることについての「座りの悪さ」は、 ジェンダーフリーにおいて(例えばラジカル・フェミニズムにも昔から見られるように)「区別」と「差別」とが区別されていない点に由来するのではないかと思います。
     「差別」とは何かというと、差別の対象があるカテゴリーに属しているとして、そのカテゴリーを不当に「価値のないもの」「劣っているもの」と評価し、それによって相手(差別の対象)を不当に貶めるこ とで自分を相対的に高い位置に置く、ということです。そしてその動機は何かというと、それによって自己のアイデンティティ不安から(差別をするつど一時的に)逃れられるということ、つまりアイデンティ ティ補償にあります。一方、差別に利用されやすいカテゴリーとして例を挙げると、「異教徒」「黒人」 「部落」「在日朝鮮人」、そして「女」というのがあるわけですね。
     これらのカテゴリーは当然、何らかの差異によって「区別」される(カテゴライズされる)ことで生じるわけですが、しかし「差異」や「区別」は、「差別」とは同義語ではありませんし、また差別の「原因」でもありません。別の表現をすれば、「差別」は「差異」(区別)を利用して行なわれるけれども、 「差異」(区別)は「差別」の本質ではありません。  「区別」と「差別」を同一視し、「差別」をなくすためには「区別」やその原因となるあらゆる「差異」をなくさなくてはならない、という考えが、様々な分野の反差別運動に見られたたことは事実です。 しかし、こういう考え方は「差別とは何か」についての考察が浅く、「差別」の本質をつきはずしていると思います。このような考え方を突き詰めてゆくと、多様性の否定にならざるを得ません。
    しかし、  ・肌の色の違いがなくならなければ黒人差別はなくならない。  ・あらゆる宗教が一つに統一されなければ宗教を理由とした差別や争いはなくならない。  ・「民族」という概念を捨て去らなければ在日差別はなくならない。
    というのは、いずれもおかしなことではないしょうか。しかも現代ではこうした反差別の思想は、その一方で「多様性を認めよう」といったりもするわけです。
     真樹子さんの「性別<選択>の自由」という定義とは違って、私の印象では「ジェンダーフリー」は実際 には「ジェンダーレス」を志向しているとしか考えられません。そうでなければ「区別」と「差別」が同一視されるはずがないからで、逆に「選択」はあらかじめ、あれかこれかという「区別」を前提として要求します。この混乱はおそらく、「差異の否定」と「多様性の容認」という相反する条件が引き起こす矛盾の現われだと思います。現代の反差別の思想はこのような内部矛盾をかかえてしまっているために、傍から見るとどこか胡散臭い思想として受け取られてしまう、という状況に陥っているのではないでしょう か。
     これはあくまでも私の勝手な印象として書くのですが、多くのジェンダーフリー支持の当事者がこの矛盾に目をつぶっているのに対して、おそらく真樹子さんの鋭敏な感性はそれを無視できないのだろうと思います。それゆえに、真樹子さんはこの矛盾に引き裂かれるような、ある種の葛藤を抱えているように見受けられます。  なぜ反差別の思想がこういう矛盾を抱えるのかというと、差別の撤廃についてあまりに実践的な課題を立てることを急ぎすぎたからだと思います。もちろん差別される側にとってその解決は急務であり、し

    資料の原本内容

    「区別」と「差別」を区別する
     「 戸籍訂正とジェンダーフリー 」を拝見しました。
     私の考えでは、戸籍訂正問題とジェンダーフリーと絡めて論じることについての「座りの悪さ」は、 ジェンダーフリーにおいて(例えばラジカル・フェミニズムにも昔から見られるように)「区別」と「差別」とが区別されていない点に由来するのではないかと思います。
     「差別」とは何かというと、差別の対象があるカテゴリーに属しているとして、そのカテゴリーを不当に「価値のないもの」「劣っているもの」と評価し、それによって相手(差別の対象)を不当に貶めるこ とで自分を相対的に高い位置に置く、ということです。そしてその動機は何かというと、それによって自己のアイデンティティ不安から(差別をするつど一時的に)逃れられるということ、つまりアイデンティ ティ補償にあります。一方、差別に利用されやすいカテゴリーとして例を挙げると、「異教徒」「黒人」 「部落」「在日朝鮮人」、そして「女」というのがあるわけですね。
     これらのカテゴリーは当然、何らかの差異によって「区別」される(カテゴライズされる)ことで生じるわけですが、しかし「差異」や「区別」は、「差別」とは同義語ではありませんし、また差別の「原因」でもありません。別の表現をすれば、「差別」は「差異」(区別)を利用して行なわれるけれども、 「差異」(区別)は「差別」の本質ではありません。  「区別」と「差別」を同一視し、「差別」をなくすためには「区別」やその原因となるあらゆる「差異」をなくさなくてはならない、という考えが、様々な分野の反差別運動に見られたたことは事実です。 しかし、こういう考え方は「差別とは何か」についての考察が浅く、「差別」の本質をつきはずしていると思います。このような考え方を突き詰めてゆくと、多様性の否定にならざるを得ません。
    しかし、  ・肌の色の違いがなくならなければ黒人差別はなくならない。  ・あらゆる宗教が一つに統一されなければ宗教を理由とした差別や争いはなくならない。  ・「民族」という概念を捨て去らなければ在日差別はなくならない。
    というのは、いずれもおかしなことではないしょうか。しかも現代ではこうした反差別の思想は、その一方で「多様性を認めよう」といったりもするわけです。
     真樹子さんの「性別<選択>の自由」という定義とは違って、私の印象では「ジェンダーフリー」は実際 には「ジェンダーレス」を志向しているとしか考えられません。そうでなければ「区別」と「差別」が同一視されるはずがないからで、逆に「選択」はあらかじめ、あれかこれかという「区別」を前提として要求します。この混乱はおそらく、「差異の否定」と「多様性の容認」という相反する条件が引き起こす矛盾の現われだと思います。現代の反差別の思想はこのような内部矛盾をかかえてしまっているために、傍から見るとどこか胡散臭い思想として受け取られてしまう、という状況に陥っているのではないでしょう か。
     これはあくまでも私の勝手な印象として書くのですが、多くのジェンダーフリー支持の当事者がこの矛盾に目をつぶっているのに対して、おそらく真樹子さんの鋭敏な感性はそれを無視できないのだろうと思います。それゆえに、真樹子さんはこの矛盾に引き裂かれるような、ある種の葛藤を抱えているように見受けられます。  なぜ反差別の思想がこういう矛盾を抱えるのかというと、差別の撤廃についてあまりに実践的な課題を立てることを急ぎすぎたからだと思います。もちろん差別される側にとってその解決は急務であり、したがってこのような「急ぎすぎる姿勢」が出てくることには、それなりの必然性があります。そして「差別」がなぜいけないのかということを最初から倫理的に「善悪」の問題として考えてしまう場合には、必ず糾弾する相手を求めたり、短絡的な「原因」探しが行なわれます。もうひとつ、特に現代のフェミニズムにおいては「差別されている女性もいる」というのではなく「あらゆる女性が差別されている」という主張になっています。この主張を維持しようとすると、「性差」と「性差別」とが限りなく同義語化してゆきます。いわば、いまや彼女達は逆説的に「性差」を重要視せざるを得ない状況に自らを追い込んでしまっているのです。しかし数十年、あるいは百年以上に渡って、このような思想的欠陥が改められないと いうのは、ある意味では「異常」なことではないでしょうか。
     なぜ差別が「悪」なのかを説明できなくても、ほとんどの人は差別という行為に対して醜いとか、ずるいと感じると思います。それは上に書いたように、自分を相対的に高めるために不当に他人を利用する行為だからです。差別することは自己のアイデンティティ不安を露呈することであり、さらにその埋め合わせのための「ずる」をするわけですから、これは「善悪」の問題以前に「美醜」の問題、つまり「ダサい」「かっこわるい」「みっともない」こととして、私達に受け取られているはずです。私達が自分に向 けられた差別だけでなく「差別一般」に対して嫌悪を感じるのは、それが論理的に「悪」だからではなく て、必ずこのような「感性の問題」が先行しているはずなのです。
     「区別」(カテゴライズ)は「差別」に利用されるわけですが、「区別」があるから「差別」が起こる のではなく、あくまでも、差別する側にアイデンティティ不安があるから「差別」が起こるわけです。もちろんこうした「区別」の中には「部落」のように、なくした方がよい(あるいは既に事実上その意味を喪失しているような)カテゴリーもあります。しかし「常民-部落」を単純に「男-女」に置き変えるこ とはできません。なぜかというと、世の中の多くの男女にとっての「性差」は、時には不当な性差別に利用されることもありますが(その事実を私は決して否定しません)、一方ではそれが男女の幸福の基底を なしてもいるからです。そして、彼らと彼女達は、その中で個々に自分達の可能性を模索したり、実現し たり、失敗したりすることで、その生を送っています。
     したがって、もし(一部の)フェミニストから「TGのふるまいが女性または男性のステレオタイプを 強化している」という批判が出ているのであれば、その批判は T's だけではなく大多数の男女に向っても放たれなければならないでしょう。しかしそれをやれば、フェミニズムが最初めから女性一般の意見など ではなく、女性の内部においてさえ少数意見に過ぎないことが露呈してしまいます。女性には向けられな い批判が MTF に向けられるとしたら、この女性と MTF との「区別」こそ、フェミニストのアイデンティ ティ補償を目的として行なわれる「差別」ではないでしょうか(また、そもそもフェミニストが主張する ほど確固とした男女のステレオタイプなど、本当に現代の日本の社会に存在しているのかという点も、根本から疑い直してみるだけの価値のある問題だと思います)。
     現実には、T's の大多数は、男女の「区別」の撤廃など望んではいません。なぜなら、自分は「男 (女)」だという性自認を否定したら、ほとんどの性同一性障害は成り立たないからです。戸籍訂正問題 の問題だけでなく、性別という「区別」の廃止の主張は、論理的帰結としては性同一性障害そのものを否定せざるを得なくなります。「性別二元論は間違いであり、性同一性障害もその間違った思い込みに立脚 しているから間違った主張なんだ」といわれて、納得する当事者がどれだけいるのでしょうか。「なるほ ど私が間違っていた」と考え直して性同一性障害が解消されたという当事者がいるでしょうか。
     少なくとも私は、このような批判はほとんどの当事者に対しては説得力を持たないだろうと思います。  なぜなら、当事者の多くは「男でも女でもない存在」になりたいのではなく、MTF なら女として、FTM なら男として(その多くは「公的な場において」も)世間に認知されたいと願っているからです。もちろん、当事者の中には MTX あるいは FTX を主張する人もいますが、その存在がその他の多くの当事者の存在を否定できる根拠となるわけではありません。
     ここで結論として冒頭に述べたことを繰り返すなら、「性差別」との同一視によって「性差」や「性別」を否定しようとする思想は、そもそも性同一性障害とは相容れません。私達は、自分自身の感性に誠実である限り、フェミニストやジェンダーフリー論者(特にジェンダーレス志向の)よりも、むしろそれ以外の大多数の男女との間で「性別」についての感性を共有していることを「発見」出来ると思います。 またそこを共通の出発点とすることが、当事者と世間一般との間に、性同一性障害についての共通了解を 打ち立てられるという可能性の根拠にもなると思うのです。少なくともこれが私が、フェミニズムやゲイ その他のセクシャルマイノリティに依存した「借り物の思想」を脇に置いて、性同一性障害の立場から出発して考えた結論です。
    まきこより  拙文をお読みいただいた上にご感想を書くことに時間を割いていただき、大変ありがとうございます。  「差別」の論点は、ある意味私は意図的に避けて通っているところがあって、あまり言及することが無かったのですが、なぜ避けているかというと、既存の社会運動が大なり小なりここを中心に動いていて、それに対する胡散臭さを感じているからです。
     なぜ胡散臭いかというと、かれらの論理というのは、まず差別されている社会集団としての自分たち「マイノリティ」が実在することが当然の前提としてあって、一方で差...

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