情報化社会の陥穽
1.「情報」と「コンピュータ」に対する崇拝
先年、「カルト教団」という言葉が話題になった。荒唐無稽な教義を掲げた新興 宗教が、殺人を含む多くの反社会的な行動に走り、大きな社会問題になったからで あった。カルト(cult)という言葉を英和辞書で引いてみると、「特にある集団の 人たちが表明する、ある人・理想・事物への礼讃、傾倒、崇拝;(一時的)熱中、 熱狂、……熱、流行」などと説明されている(小学館『ランダムハウス英和大辞典』)。 T.ローザックという文明批評家は、このカルトという言葉を用いて、コンピュ ータや情報化社会の問題点を論じた。The Cult of Information: The Folklore of Computers and the True Art of Thinking, Pantheon Books, 1986という書物がそ れである。直訳すれば「情報崇拝:コンピュータ神話と思考の本質」とでもなろう か。筆者はこの書物の邦訳作業(『コンピュータの神話学』朝日新聞社)を通じて、 コンピュータとは一体どういう存在なのか、また情報化社会はどのような可能性を 持つと同時に限界ないしは危険性を有するのかなどについて考えるようになった。 ローザックはこの書物の中で、英語圏にあってはinformationという語は、本来 ごくありふれた語の一つにすぎなかったのに、コンピュータの発達と普及に伴って、 次第に特別の重みをもつようになったと論じている。日本語の「情報」についても 同様のことが言えるだろう。そして、「情報をもっているものと、もっていないも の」、あるいは「情報にアクセスし自由に操作できるものと、そうすることができ ないもの」といった言い方が頻繁になされ、「情報化社会に取り残されないために」 といったタイトルのビジネス本が店頭に横積みにされ、雑誌の特集記事になる。そ んなことが、ここ10年来、いや20年来繰り返されてきた。その結果、近年、多くの大学 でも「情報科目」が開設されるようになってきた。 このようにビジネスの世界も大学を含む教育の世界も、そして社会全体が一斉に 「情報化」に、そして「コンピュータ」になだれをうっている。ローザックは、こ のような動きを一種の「カルト」だと見て批判している--多くの人々は、情報化 社会についての的確な展望を欠いたまま、そしてコンピュータの能力についての適 切な理解を欠いたまま、世の中の流れに取り残されまいと、やみくもに「情報」に 「コンピュータ」に向けて走り出しているのではないか。もしそうなら、現在の状 況は、情報崇拝あるいはコンピュータ崇拝と呼ぶべきではないか、というわけであ る。しかも、情報・コンピュータ崇拝の蔓延には、当然のことながら、コンピュー タ関連業界やコンピュータの専門家による誇大・過剰宣伝が大いに貢献している。 したがって、われわれは、コンピュータにまつわるおびただしい言説のうちに、ま ともなものと脅迫まがいの誇大宣伝とを区別せねばならない。 ローザックが以上のような批判を行ったのは10年以上も前のことであるが、情報やコ ンピュータに関して、カルト的な言説や雰囲気はなくなっただろうか? むしろ、 ここ数年、「マルチ・メディア」「インターネット」「Eメール」「ネットワーク 社会」などといった目新しい概念なり用語が登場して、これまで以上にカルト的状 況が進行しているといえよう。
2.コンピュータ・リテラシーについて
コンピュータ・リテラシーとは、言う
情報化社会の陥穽
1.「情報」と「コンピュータ」に対する崇拝
先年、「カルト教団」という言葉が話題になった。荒唐無稽な教義を掲げた新興 宗教が、殺人を含む多くの反社会的な行動に走り、大きな社会問題になったからで あった。カルト(cult)という言葉を英和辞書で引いてみると、「特にある集団の 人たちが表明する、ある人・理想・事物への礼讃、傾倒、崇拝;(一時的)熱中、 熱狂、……熱、流行」などと説明されている(小学館『ランダムハウス英和大辞典』)。 T.ローザックという文明批評家は、このカルトという言葉を用いて、コンピュ ータや情報化社会の問題点を論じた。The Cult of Information: The Folklore of Computers and the True Art of Thinking, Pantheon Books, 1986という書物がそ れである。直訳すれば「情報崇拝:コンピュータ神話と思考の本質」とでもなろう か。筆者はこの書物の邦訳作業(『コンピュータの神話学』朝日新聞社)を通じて、 コンピュータとは一体どういう存在なのか、また情報化社会はどのような可能性を 持つと同時に限界ないしは危険性を有するのかなどについて考えるようになった。 ローザックはこの書物の中で、英語圏にあってはinformationという語は、本来 ごくありふれた語の一つにすぎなかったのに、コンピュータの発達と普及に伴って、 次第に特別の重みをもつようになったと論じている。日本語の「情報」についても 同様のことが言えるだろう。そして、「情報をもっているものと、もっていないも の」、あるいは「情報にアクセスし自由に操作できるものと、そうすることができ ないもの」といった言い方が頻繁になされ、「情報化社会に取り残されないために」 といったタイトルのビジネス本が店頭に横積みにされ、雑誌の特集記事になる。そ んなことが、ここ10年来、いや20年来繰り返されてきた。その結果、近年、多くの大学 でも「情報科目」が開設されるようになってきた。 このようにビジネスの世界も大学を含む教育の世界も、そして社会全体が一斉に 「情報化」に、そして「コンピュータ」になだれをうっている。ローザックは、こ のような動きを一種の「カルト」だと見て批判している--多くの人々は、情報化 社会についての的確な展望を欠いたまま、そしてコンピュータの能力についての適 切な理解を欠いたまま、世の中の流れに取り残されまいと、やみくもに「情報」に 「コンピュータ」に向けて走り出しているのではないか。もしそうなら、現在の状 況は、情報崇拝あるいはコンピュータ崇拝と呼ぶべきではないか、というわけであ る。しかも、情報・コンピュータ崇拝の蔓延には、当然のことながら、コンピュー タ関連業界やコンピュータの専門家による誇大・過剰宣伝が大いに貢献している。 したがって、われわれは、コンピュータにまつわるおびただしい言説のうちに、ま ともなものと脅迫まがいの誇大宣伝とを区別せねばならない。 ローザックが以上のような批判を行ったのは10年以上も前のことであるが、情報やコ ンピュータに関して、カルト的な言説や雰囲気はなくなっただろうか? むしろ、 ここ数年、「マルチ・メディア」「インターネット」「Eメール」「ネットワーク 社会」などといった目新しい概念なり用語が登場して、これまで以上にカルト的状 況が進行しているといえよう。
2.コンピュータ・リテラシーについて
コンピュータ・リテラシーとは、言うまでもなく、コンピュータと読み書き能力 を意味するリテラシーとを結びつけた言葉である。情報化社会を生き抜くには何を さておいてもコンピュータの運用活用能力、すなわちコンピュータ・リテラシーの 獲得が不可欠だという議論--このような議論にも前述の情報・コンピュータ崇拝 をみてとることができるが--から、「情報科目」が誕生している。そして多くの学生 がこの情報科目を履修することが期待されており、実質的には「必修科目」的な重 みをもっている。設備が整い次第、多くの大学で情報科目は必修科目になるだろう。その時、 大学で学んだ学生の大半がコンピュータ・リテラシーを獲得して卒業するという ことになる。 将来コンピュータの専門家を目指してコンピュータそのものを深く学ぼうとして いる学生に対して、あるいは勉学や研究の必要不可欠のツールとしてコンピュータ の利用法を学ぼうとしている学生に対して、大学は最大限の学習機会を提供すべき であろう。とはいえ、コンピュータには全く関心を示さない学生もいるはずで、そ のような学生をむりやりコンピュータの前に座らせる必然性、あるいは履修しなけ れば卒業させないとする必然性があるだろうか。それはまさにローザックが批判し た情報/コンピュータ崇拝以外の何物でもあるまい。この意味で、筆者は情報科目 の必修化には疑問を禁じえない。 初等・中等教育の段階でも、できるだけ早く、できるだけ多くコンピュータに触 れさせるべきだという議論が強力に展開されている。CAI(コンピュータを用い た教育)の研究や実践も積み重ねられており、アメリカで開発された「ロゴ」をは じめ、多くのソフトウェアが市販され、教育現場に導入されつつあるとのことであ る。 情報化を推進している人々が口を開けば言うように、コンピュータの進歩はハー ドとソフトの両面で急速である。日進月歩ということは、確かに目覚ましいことだ が、言い換えればその技術がまだ未完成だということでしかない。したがって、学 校や大学がいかほどかの時間をコンピュータ・リテラシーの開発に割いたとしても、 また生徒・学生が課された課題を努力してクリアしたとしても、そこで獲得された はずの能力は数年後には確実に陳腐化していることになる。とすれば、学生・生徒 が、他の科目の履修時間数を減らしてまで(必然的にそういうことになる)、コン ピュータ・リテラシー(「中途半端な」という形容詞をつけてもよいが)を身につ けなければならない必然性がどこにあろうか? コンピュータ専門家の言葉を信じ るならば、近い将来、限りなくユーザー・フレンドリーな(利用者に優しい、使い 易い)コンピュータが登場するはずで、その場合には、特に何の準備も必要とせず に、誰でもコンピュータを使いこなせるはずではないか。 それにもかかわらず、コンピュータ・リテラシーやネットワーク化が多くの教育 現場で脅迫観念のように語られ、実際、多数のコンピュータが導入されつつある。 このような状況は、もちろんコンピュータ・メーカーの利益に叶っている。たとえ 大幅な割引価格であれ、学校・大学にコンピュータを大量に納入すれば、関連機器 やソフトウェアの販売、さらには技術進歩に伴う機種更新という具合に追加投資は 確実だし、何よりも教師や学生をコンピュータ崇拝に帰依させることができる。教 師の能力はコンピュータを扱えるかどうかで判断され、学生はコンピュータなしで は何もできないと信じこんで社会に出ていく。そうなれば、情報/コンピュータ崇 拝は一層揺るぎないものとなるだろう。このようにして、コンピュータ・メーカー とそのスポークスマンたちによって、コンピュータに対する崇拝が喧伝され、それ がさらなるコンピュータ崇拝を生み出すという自己増殖システムが確立しているの である。
3.情報化社会の問題点
コンピュータ化・情報化の進展が声高に叫ばれ、それが実現していく過程では情 報化に伴うネガティヴな側面は意図的に伏せられる場合が多い。しかし、すでに多 くの人々が情報化に伴う問題点を指摘しているし、実際多くの問題が生じつつある。
個人情報の管理と『1984年』 国勢調査や戸籍・住民票に代表されるように、政府は、国家レベルでまた地方レ ベルで膨大な情報を収集し、管理してきた。税金を取り立てる一方で、行政サービ スを行うためには不可欠の作業だからである。しばしば「国民総背番号制」が提案 され、議論を呼ぶ所以である。一方、民間でもさまざまなかたちで個人情報を収集 し、それをもとにビジネスが営まれている。代表的なものとしては銀行や信販会社 などがある。官庁や企業が別々に収集した個人情報の多くは、現在ではコンピュー タ化されているからそれらを結びつけることは技術的に容易になった。もしこれら すべての個人情報を集積すれば、ある個人について知られうることはすべて知られ てしまう--出生、学歴(および学業成績)、職歴、病歴、家族、収入、金銭出納 記録、資産、納税額、賞罰、思想・信条(こんな個人情報はないと信じたいが)等 々。そして、知らないところで自分に関する情報がやりとり(売買)されてたり、 不利益をもたらしたりしているかもしれないのである。G.オーウェルは『1984年』 という小説で、超管理社会の恐怖を描いたが、ネットワークが張り巡らされた情報 化社会はオーウェル的な超管理社会にもなりうることは忘れてはならないだろう。
犯罪と事故 しばしば報道されるように、コンピュータにウイルスが仕掛けられて、データや プログラムが盗まれたり破壊されたり混乱させられることがある。ハッカーによる 犯罪である。また、金融機関などでは高度のノウハウをもったものによるデータの操作・ 改竄といったコンピュータ犯罪が発生している。社会のさまざまな機能がコンピュ ータを通じて遂行されるようになるにつれて、そして、それらが有機的にネットワ ーク化されるにつれて、それが...