スポーツと科学の間

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    スポーツと科学の間(1)--ディシプリン・パラダイム・ルール
     
     スポーツという営みないし制度と、科学という営みないし制度は全く別物、むしろ水と油のように異なるもの、敢えて言えば対立さえするものとさえ考えられているのではないだろうか。スポーツや体育に関心をもち、何らかのかたちでそれに携わる人々と、自然を実験的あるいは理論的に探求する人々は、関心においても資質においても全く異なる、としばしば考えられている。ありていに言えば、「体育系」と「理科系」とは別種の人間だということである。かく言う筆者もこれまで漠然とそのように考えてきた。
     しかし、果たしてそうだろうか。中村が慧眼にも指摘しているようにスポーツと科学の間には、いくつもの重要な共通点があるのではなかろうか(1)。先ずはディシプリンという言葉を手がかりに考えてみよう。
     
    ディシプリン
     ディシプリンdisciplineという語を辞書で引いてみると、実に多様な意味がある。ちなみに名詞については以下のような訳語があてられている。
    1 訓練、鍛錬、修行
    2 懲戒、折檻
    3 しつけ、規律
    4 学科、専門分野
     このような一見不可解なまでに多様な訳語群は、disciplineがディサイプル(disciple:門弟、弟子)の派生語で、Discipleと大文字で始めればキリストの十二使徒を意味する、などということを確かめれば、なるほどと合点がいく。
     すなわち、弟子は宗教上の指導者=開祖の教えを訓練や修行を通じて学ぶ。しかし規律は厳しく、規律を破れば罰せられるし、破門される場合もあるだろう。そして、元来は宗教的な場面で用いられていたこの言葉が、学問ないし研究教育の場面にも適用されるようになった。学問上の指導者・教師と弟子・後継者との間には、宗教指導者とその弟子との間にみられる関係と類似の関係があるからである。科学者を目指す若者は、教授の指導の下、実験室での厳しく長い訓練を通じて、一人前の科学者となることができる。このようにして養成された科学者たちが学科を、あるいは専門分野を構成している。かくて、ディシプリンには「訓練」「懲戒」から「学科」「専門分野」に至る多様な意味が含まれることになったのである。
     スポーツについてはどうだろうか。厳しい訓練や規律は、むしろスポーツにこそふさわしい。訓練をサボる、あるいはコーチの指導や規律に従わない選手には当然にも懲戒ないし制裁が加えられるだろう。このような試練をくぐり抜けた競技者・選手たちが、専門分野ならぬ各種のスポーツ競技を構成しているのは言うまでもない。ディシプリンに関する以上の議論を整理すると次の表のようになる。
         制度      場所      形態      内容      宗教     僧院・道場    開祖から弟子へ      教義      科学     実験室 教授から学生・大学院生へ    専門分野・学科     スポーツ    体育館・競技場   コーチから選手へ     競技種目        (表)ディシプリンの諸形態
     
    規律・訓練の拠点としての体育館と実験室
     ところで、ディシプリンとは、M・フーコーの名著『監獄の誕生--監視と処罰』第三部「規律・訓練」の標題でもある(2)。フーコーはディシプリンを「身体の運用への綿密な取締を可能にし、体力の恒常的な束縛をゆるぎないものとし、体力に従順=効用の関係を強制するこうした方法こそが、規律・訓練disciplineと名づけうるものである」(3)と定義している。そして、フーコーは

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    スポーツと科学の間(1)--ディシプリン・パラダイム・ルール
     
     スポーツという営みないし制度と、科学という営みないし制度は全く別物、むしろ水と油のように異なるもの、敢えて言えば対立さえするものとさえ考えられているのではないだろうか。スポーツや体育に関心をもち、何らかのかたちでそれに携わる人々と、自然を実験的あるいは理論的に探求する人々は、関心においても資質においても全く異なる、としばしば考えられている。ありていに言えば、「体育系」と「理科系」とは別種の人間だということである。かく言う筆者もこれまで漠然とそのように考えてきた。
     しかし、果たしてそうだろうか。中村が慧眼にも指摘しているようにスポーツと科学の間には、いくつもの重要な共通点があるのではなかろうか(1)。先ずはディシプリンという言葉を手がかりに考えてみよう。
     
    ディシプリン
     ディシプリンdisciplineという語を辞書で引いてみると、実に多様な意味がある。ちなみに名詞については以下のような訳語があてられている。
    1 訓練、鍛錬、修行
    2 懲戒、折檻
    3 しつけ、規律
    4 学科、専門分野
     このような一見不可解なまでに多様な訳語群は、disciplineがディサイプル(disciple:門弟、弟子)の派生語で、Discipleと大文字で始めればキリストの十二使徒を意味する、などということを確かめれば、なるほどと合点がいく。
     すなわち、弟子は宗教上の指導者=開祖の教えを訓練や修行を通じて学ぶ。しかし規律は厳しく、規律を破れば罰せられるし、破門される場合もあるだろう。そして、元来は宗教的な場面で用いられていたこの言葉が、学問ないし研究教育の場面にも適用されるようになった。学問上の指導者・教師と弟子・後継者との間には、宗教指導者とその弟子との間にみられる関係と類似の関係があるからである。科学者を目指す若者は、教授の指導の下、実験室での厳しく長い訓練を通じて、一人前の科学者となることができる。このようにして養成された科学者たちが学科を、あるいは専門分野を構成している。かくて、ディシプリンには「訓練」「懲戒」から「学科」「専門分野」に至る多様な意味が含まれることになったのである。
     スポーツについてはどうだろうか。厳しい訓練や規律は、むしろスポーツにこそふさわしい。訓練をサボる、あるいはコーチの指導や規律に従わない選手には当然にも懲戒ないし制裁が加えられるだろう。このような試練をくぐり抜けた競技者・選手たちが、専門分野ならぬ各種のスポーツ競技を構成しているのは言うまでもない。ディシプリンに関する以上の議論を整理すると次の表のようになる。
         制度      場所      形態      内容      宗教     僧院・道場    開祖から弟子へ      教義      科学     実験室 教授から学生・大学院生へ    専門分野・学科     スポーツ    体育館・競技場   コーチから選手へ     競技種目        (表)ディシプリンの諸形態
     
    規律・訓練の拠点としての体育館と実験室
     ところで、ディシプリンとは、M・フーコーの名著『監獄の誕生--監視と処罰』第三部「規律・訓練」の標題でもある(2)。フーコーはディシプリンを「身体の運用への綿密な取締を可能にし、体力の恒常的な束縛をゆるぎないものとし、体力に従順=効用の関係を強制するこうした方法こそが、規律・訓練disciplineと名づけうるものである」(3)と定義している。そして、フーコーは「規律・訓練の拠点」disciplinary blockとして、学校・兵舎・病院・工場そして監獄を挙げているが、これらの拠点における「規律・訓練は、独房・座席・序列の組織化によって、複合的な空間を、つまり建築的なと同時に機能的で階層秩序的な空間をつくりだす。定着を確保し、しかも循環を許容する空間である。その空間は個人別の小さい部分に分けられ、しかも操作的な諸関係をうちたてる。座席(=位置)を明示し、しかも値うちを示す。個々人の服従を、さらに時間的ならびに動作の最上の節約を確保する。それは混成的な空間である」(4)。スポーツがこれら「規律・訓練の拠点」でしばしば奨励されていること(これらの拠点は、多くの場合、その内部に「運動場」を持っている)、また、サッカー、野球など近代スポーツの多くが、競技者に対して明確に役割・機能分化した「ポジション」を割り当てることによって、競技場をまさしく「混成的な空間」として演出していることは、フーコーの規律・訓練に関する分析が、スポーツという営みないし制度にも見事に適合することを示唆している。
     J・ラウズは、科学実験室laboratoryもまた、フーコーの言う意味での規律・訓練の拠点であると論じている(5)。実験室とは何か。ラウズによれば、実験室とは、自然そのものの中には見出すことの困難な「現象を現出する小世界」である。換言すれば、科学者は実験室の中に人工的な小世界を構築し、それを自由に操作することによって、データ(記号)を生産する。この操作を首尾よく行い、得られたデータに信頼性を与えるためには、実験室は、空間的に隔離され、絶えず監視されねばならず、得られたデータはきちんと記録され、分類されねばならない。このことは、フーコーが分析した規律・訓練の拠点において生徒・兵士・病人・労働者・囚人が、絶えず監視され、記録され、分類されるのと正確に見合っている。かくて、対象は異なる(人間/現象)が、実験室もまた、規律・訓練の拠点の一つだと、ラウズは言うのである(6)。
     体育館ないし競技場が、そして科学実験室が、フーコーの言う規律・訓練の拠点だとして、これら規律・訓練の拠点の存在とそこでの実践は、どのような意味をもっているのか。フーコーは次のように言う--「規律・訓練の発展は、まったく別種の経済に属する、基本的な権力技術の出現を明示するわけである。……かつて権力の経済を支配していた「先取=暴力」という古い原則にかわって、規律・訓練は「穏やかさ=生産=利益」の原則を採り入れる。その原則にもとづいて、人間の多様性と生産装置の多様化を調整可能にさせる、いわばそうした諸技術を現に用いているのだ(しかもこの生産装置という言葉でもって、単に、固有な意味での「生産」を意味するのみならず、学校における知と能力の生産、病院における健康の生産、軍隊の場合の破壊力の生産をも意味しなければならない)」(7)。スポーツと科学にそくして言うなら、これらの実践(スポーツ競技/科学研究)は、体育館や競技場を越えて、また実験室を越えて、より広い社会へと拡がっていくことによって、人々の生き方(例えば、健康・スポーツ志向)や世界との関わりかた(例えば、技術による自然の制御と支配)を大きく変え、「生産」ないしは生産の「効率」を極大化しようとする「権力の技術」だということになろう。
     
    パラダイムとルール
     パラダイムparadigmとは「一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの」とは、あまりにも有名なクーンの定義である(8)。すなわち、科学者はパラダイムに依拠しながら研究を進める。前述の文脈にそくして言えば、厳しいディシプリンを通じて、それぞれの専門分野で前提とされ共有されているパラダイムを、修得した人々によって科学研究は遂行されている。クーンは、パラダイムに依拠してなされる科学研究を通常科学normal scienceと呼んだ。通常科学にあっては、問い方や答え方はもちろん、答えが存在すること、そして答えそのものもかなりの精度で予測できる。その意味では、通常科学はパズルないしゲームに似ている、とクーンは論じ、科学研究の大半は「パズル解き」puzzle solvingだと断じた。
     このようなクーンの科学論は、パラダイムという概念があいまいだとの批判を浴びたし、自らの研究活動をパズル解きになぞらえられた科学者からの反発を招いた。しかし、批判と反発の激しさは、むしろクーンの科学論が、まさしく科学の本質を言い当てたことを裏付けているように思われる。
     科学研究の大半はパズル解きないしはゲームだと言うとき、クーンは決して科学をおとしめているわけではない。むしろ、いかに早くエレガントに解に至るかは、優れた才能と技量をもった人々を夢中にさせる魅力をもった、スリリングな知的挑戦であることを含意している。実際、科学者たちは一番乗りを目指して日夜しのぎをけずっている。
     一方、言うまでもないことだが、スポーツは一定のルール(規則・規定)の下、ゲーム(試合・競技)として行われる場合が多い。
     「パズル解きとしての科学」「ゲームとしてのスポーツ」と並記すれば、その表面的な異質性とは逆に、近代社会における科学とスポーツの、本質的・根本的な意味での共通性が一層際立ってくる。
     しかし、重要な違いも指摘しておかねばならない。それは、スポーツにおけるルールが非常に厳格に定められており、競技者は徹底的にそのルールに従わねばならないが、科学研究におけるパラダイムは、そのような厳格さをもたないということである。科学におけるパラダイムは、一連のルールとして記述できる部分もあるが、ルールには還元できない思想的要素あるいは暗黙知的な要素を多分に含んでいるのである(9)。しかも、決定的に重要なことだが、スポーツの場合、競技者はルールに違反することは厳禁されており、あえてルール違反をすれば、競技資格を失う。しか...

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