エネルギーとは何か
あまりに身近になっているのに、 この概念を説明するのは難しい。 エネルギーって何なんだ?!
運動量保存の法則の他に、物体の運動を理解するために大切な法則がもう一つあって「エネルギー保存の法則」と呼ばれている。 この法則は、物が勝手に宙に浮いたり何も理由がなく突然はじけたりといったポルターガイスト(騒霊)現象みたいなことが起こることを防いでいる。 ちなみに、もしこのようなことが起こっても運動量保存の法則にとってはまるで問題ない。 物がふわりと宙に浮いても、その分だけ地球が下向きに移動すれば済むことであるし、物がはじけても、全体の重心の位置さえ同じなら全く構わないのである。
静止している2つの物体がお互いを押し合うことで動き始めても、合計の運動量が0のままならば運動量保存則に反することにはならない。 しかしそこら中のものが勝手に相手を突き飛ばして動き始めるようなことが起きないでいてくれるのは、物体の運動がエネルギー保存則というもう一つの条件に従っているからである。
物体はエネルギーが与えられない限り勝手に動き始めることが出来ない。 どうしてそうなっているか私は知らないが、とにかくこの世界はそのようになっているのだ。 物体は与えられたエネルギーの分しか運動できない。 そして、そのエネルギーという量は他から他へ移動することがあってもなくなることがない。 いつまでも一定である。 これがエネルギー保存の法則である。 私たちは普段、「エネルギーを使い切った」「エネルギーが無くなった」という表現を使うが、正確に言えば「エネルギーが他に移った」と言うべきものである。
なぜ、エネルギーが他から与えられなければ運動できないのだろう? 普段、当たり前に思っているこのエネルギーというものを考え直してみようと思う。 何か別の理由があって、エネルギーが保存しているように見えているだけかもしれない。
エネルギーとは何か?
ここまで何の説明もなしに「エネルギー」という言葉を使ってきたが、そもそも「エネルギー」とは何なのだろうか?
その説明の為にまず「仕事」という概念を定義することから始めよう。 あらかじめ言っておくと、この「仕事」という概念が「エネルギー」と同じものを表すことになるのである。
仕事の定義
物体に力が加わっており、その物体が加えられた力の方向に移動した場合、 その力と移動距離をかけあわせた量を「仕事」と呼ぶ。
うまく定義したものである。 いくら物体に力を加えても物体が動かなければ仕事をしたことにはならないというのだ。 これは私たちの日常の感覚と少し違うかも知れない。 私たちは物が動こうが動くまいが、一生懸命力を加えたらそれだけで筋肉に疲れを感じる。 そして大仕事をしたと感じることであろう。 しかし、力を加えられた側の物体にとっては・・・そしてその物体を動かす為に人を雇った側の人間にとっては・・・何にも変化していないのだ。 これでは仕事をしなかったのと同じである。 この「仕事」という概念はいかにも効率を重んじる文化圏らしい考えだと思う。 精神論に傾きがちな日本では「やる気があって実際に物体を押してみたのだから評価してやるべきだ」という考えに陥って、もし日本で独自に物理学が誕生したとしてもそれ以上先へ進めなかったのではないかと思ってしまう。 この仕事という概念が、物理をうまく説明できるように試行錯誤を経て徐々にこの形で定義されるようになったのか、それとも初めから文化的な背景を基にしてこのような形で現われたのか興味がある
エネルギーとは何か
あまりに身近になっているのに、 この概念を説明するのは難しい。 エネルギーって何なんだ?!
運動量保存の法則の他に、物体の運動を理解するために大切な法則がもう一つあって「エネルギー保存の法則」と呼ばれている。 この法則は、物が勝手に宙に浮いたり何も理由がなく突然はじけたりといったポルターガイスト(騒霊)現象みたいなことが起こることを防いでいる。 ちなみに、もしこのようなことが起こっても運動量保存の法則にとってはまるで問題ない。 物がふわりと宙に浮いても、その分だけ地球が下向きに移動すれば済むことであるし、物がはじけても、全体の重心の位置さえ同じなら全く構わないのである。
静止している2つの物体がお互いを押し合うことで動き始めても、合計の運動量が0のままならば運動量保存則に反することにはならない。 しかしそこら中のものが勝手に相手を突き飛ばして動き始めるようなことが起きないでいてくれるのは、物体の運動がエネルギー保存則というもう一つの条件に従っているからである。
物体はエネルギーが与えられない限り勝手に動き始めることが出来ない。 どうしてそうなっているか私は知らないが、とにかくこの世界はそのようになっているのだ。 物体は与えられたエネルギーの分しか運動できない。 そして、そのエネルギーという量は他から他へ移動することがあってもなくなることがない。 いつまでも一定である。 これがエネルギー保存の法則である。 私たちは普段、「エネルギーを使い切った」「エネルギーが無くなった」という表現を使うが、正確に言えば「エネルギーが他に移った」と言うべきものである。
なぜ、エネルギーが他から与えられなければ運動できないのだろう? 普段、当たり前に思っているこのエネルギーというものを考え直してみようと思う。 何か別の理由があって、エネルギーが保存しているように見えているだけかもしれない。
エネルギーとは何か?
ここまで何の説明もなしに「エネルギー」という言葉を使ってきたが、そもそも「エネルギー」とは何なのだろうか?
その説明の為にまず「仕事」という概念を定義することから始めよう。 あらかじめ言っておくと、この「仕事」という概念が「エネルギー」と同じものを表すことになるのである。
仕事の定義
物体に力が加わっており、その物体が加えられた力の方向に移動した場合、 その力と移動距離をかけあわせた量を「仕事」と呼ぶ。
うまく定義したものである。 いくら物体に力を加えても物体が動かなければ仕事をしたことにはならないというのだ。 これは私たちの日常の感覚と少し違うかも知れない。 私たちは物が動こうが動くまいが、一生懸命力を加えたらそれだけで筋肉に疲れを感じる。 そして大仕事をしたと感じることであろう。 しかし、力を加えられた側の物体にとっては・・・そしてその物体を動かす為に人を雇った側の人間にとっては・・・何にも変化していないのだ。 これでは仕事をしなかったのと同じである。 この「仕事」という概念はいかにも効率を重んじる文化圏らしい考えだと思う。 精神論に傾きがちな日本では「やる気があって実際に物体を押してみたのだから評価してやるべきだ」という考えに陥って、もし日本で独自に物理学が誕生したとしてもそれ以上先へ進めなかったのではないかと思ってしまう。 この仕事という概念が、物理をうまく説明できるように試行錯誤を経て徐々にこの形で定義されるようになったのか、それとも初めから文化的な背景を基にしてこのような形で現われたのか興味があるが、 とにかく「仕事」という量はつじつまが合うようにうまく定義された量なのである。
では「仕事」の定義が出来たので、簡単な例を計算してみることにしよう。
質量 m の物体を高さ h にまで持ち上げる時の仕事を計算してみよう。 計算と言っても簡単である。 物体には重力がかかっており、その大きさは m g である。 持ち上げる時にはその重力に逆らって上向きの力を加えなくてはならない。 m g の力で距離 h だけ持ち上げたのだからそれをかけてやれば、仕事の量は、
W = m g × h = m g h
となる。 これが高校で習うところの位置エネルギーである。
次に、速度 v で運動する質量 m の物体を止めるのに必要な仕事の量を計算してみよう。 計算が簡単になるように、一定の力 F をかけて止めることにする。 質量が m の物体に力 F をかけたら、そのときの加速度は a = F / m である。 すると、v = a t という関係から分かるように、物体は t = v / a 秒後に停止することになるであろう。 t 秒後には物体は s = (1/2) a t2 = (1/2) m v2 / F だけ進んでいるから、距離 s と力 F をかければ、仕事の量が求められる。
W = (1/2)mv2
これが高校で学ぶ、運動エネルギーの式である。
動いている物体は止まるまでに (1/2)mv2 の仕事を他の物体にすることが出来るし、高いところにある物体は、落ちながら他の物体に対して m g h の仕事をすることが出来る。
ここまで来るとエネルギーの説明もしやすい。
エネルギーというのは、物体が仕事をする能力のことである。
つまり「仕事」という言葉と「エネルギー」という言葉は実は同じものを表しているのであって、ただ言葉の使い方の違いだけである。 「仕事」の方を動詞的に使い、「エネルギー」の方は名詞的に使う。 「エネルギーがある」という表現をするが、「仕事がある」とは言わない。 「仕事をする」という表現はするが、「エネルギーをする」とは言わない。 しかし「エネルギーを与える」という言葉と「仕事をする」という言葉は同じ意味である。
ちなみに「エネルギー」の語源は、ギリシア語の en(「中へ」の意を表す接頭語) + ergon(仕事)から来ている。
エネルギーは保存する
エネルギーという概念が大切なのは、それが保存する量だからである。
しかしまだエネルギーの定義を説明しただけであり、なぜこの量が保存するのかという肝心な部分については何も説明していない。 学校でも状況は同じである。 中学や高校では、実例をいくつか紹介して「確かに保存しています」と説明するだけであり、大学では「自分で考えなさい」と教えられることになる。 つまり、教えられないということなのだが、学生はそれまでに「エネルギーは保存するもの」と納得させられているので特に疑問にも思わないで進むことになる。
実はこの問題を考えると少々深い議論へと踏み込む必要があり、少なくとも日本の教育では避けられているようである。 多くの人にとってこのような議論は無用なことなので仕方ないのかも知れないが、少なくとも物理学の学生にとっては鵜呑みにすべき問題ではないと思う。 だが私もこのサイトの記事を書き始めるまでは鵜呑みにしてきたので偉そうなことは言えない。
エネルギーが保存する理由にはいくつかの側面があって、場合分けして考える必要がありそうだ。 ここで簡単に短く説明できそうもない。 このページの説明も長くなってきたことであるし、とりあえず休憩して、これからのトピックの中で一つずつゆっくり考えてゆくことにしよう。
資料提供先→ http://homepage2.nifty.com/eman/dynamics/energy.html