教育学概論Ⅰ(人間と教育) ②

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    資料紹介

    教育学概論Ⅰ(人間と教育) ②5月13日
     今回の内容
    「教育の原理」について考える。教育の本質的理解とは何か。「教育とは何か」という問いに答える。人間形成のパーツとそのプログラムとしての教育。教育の必要性はどのように説明されているのか。過度なロマン主義、「愛」や「神話」が説かれていないか。生物学的に考える(生理的早産説)。教育の目的とは何か。
      一回目の授業から一ヶ月もの間があいてしまいましたので、まだすんなりと授業に入っていく雰囲気ができていないかもしれません。前回、話したように「教育学」とはどういうものなのか、その全体を学んでいきますが、その中で細かい部分にも興味がもてたらそこを個人的に追究していけたならいいなという目的ももちつつ、その全体のガイドとして、様々なエピソードなりを入門的にお話ししていきたいと思っています。それで「教育学って面白い」「教育には注目してみたい」と思ってもらえたらいいと考えています。
     さて、「教育学」がある、学問としてありえるというのはどういう意味をもつのでしょうか。それはいうまでもなく対象としての「教育」というものがあるからなのですね。これはあたりまえのことですが、なんらかの対象があってそれへの考察が生まれ深められていくというのが学問でしょう。
     とにかく皆さんは「教育」を受けてきたし、また私も同じく受けてきた。被教育者であった。そして教育学が教職だと考えると、教員の立場・視点を学ぶ・・・、つまり教室のそちら側から私のいるこちら側へと立場を移す考え方だと思われることもあるのではないでしょうか。ただし私はそれだけではないと考えています。「教師の視点」だけではなく、教師と生徒の双方の、その関係全体(そのもの)を見渡して把握する「見方」が必要だと考えます。「教育」と「教育学」を多様な視点から考える。なるべく客観的な、そして具体的に比較的考察という立場から考察していこうと思っています。
     さて、前回に、「教育」が大きく変革して、そして人間に多大な影響を及ぼすであろうということをお話ししましたし、また日本と米国とを例に比較して、どうやら国によって「教育」の考え方やらが少しずつ違っているのではないかということについてもみてもらいました。書いてもらったリアクションペーパーでも、皆さんの中で国立大学附属高校や先進校出身でそういう例えば米国にも似た教育を受けてきたかたもいますし、また外国から留学で来ているかたや海外留学の経験のあるかたでそういう教育を体験している人もいるわけです。そういう人たちのなんと9割が「米国式の教育の方がいい」と答えている。少なくとも日本の教育に多少の不満を感じているのですね。すると私も加えて大多数の日本の教育を受けてきた人(のうちの多数)も「日本の教育がいい」と答えてもいいようなものですがそうではないようですね。いったいどういうことなのでしょうか。もちろん「両者のいいところをミックスして」といったごもっともな意見もあるし、また「日本の教育に誇りをもつべきだ」という意見もありましたが、この約300人の日本の教育を受けてきた皆さんは「米国式」「日本式」「ミックス」の三つがほぼ同数だったのです。なぜこんなにも不満かなにかがみられるのでしょうか。他国ではこういう調査をやるとどうなのでしょうかね。
     とにかく世界中で「教育」が行なわれているし、しかし一方で十分な教育が行なわれていないとか、なんらかの事情で「教育」のための施設がつくられていないところもある。また、「まちがった教育」というのが批判材料としてとりあげら

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    資料の原本内容

    教育学概論Ⅰ(人間と教育) ②5月13日
     今回の内容
    「教育の原理」について考える。教育の本質的理解とは何か。「教育とは何か」という問いに答える。人間形成のパーツとそのプログラムとしての教育。教育の必要性はどのように説明されているのか。過度なロマン主義、「愛」や「神話」が説かれていないか。生物学的に考える(生理的早産説)。教育の目的とは何か。
      一回目の授業から一ヶ月もの間があいてしまいましたので、まだすんなりと授業に入っていく雰囲気ができていないかもしれません。前回、話したように「教育学」とはどういうものなのか、その全体を学んでいきますが、その中で細かい部分にも興味がもてたらそこを個人的に追究していけたならいいなという目的ももちつつ、その全体のガイドとして、様々なエピソードなりを入門的にお話ししていきたいと思っています。それで「教育学って面白い」「教育には注目してみたい」と思ってもらえたらいいと考えています。
     さて、「教育学」がある、学問としてありえるというのはどういう意味をもつのでしょうか。それはいうまでもなく対象としての「教育」というものがあるからなのですね。これはあたりまえのことですが、なんらかの対象があってそれへの考察が生まれ深められていくというのが学問でしょう。
     とにかく皆さんは「教育」を受けてきたし、また私も同じく受けてきた。被教育者であった。そして教育学が教職だと考えると、教員の立場・視点を学ぶ・・・、つまり教室のそちら側から私のいるこちら側へと立場を移す考え方だと思われることもあるのではないでしょうか。ただし私はそれだけではないと考えています。「教師の視点」だけではなく、教師と生徒の双方の、その関係全体(そのもの)を見渡して把握する「見方」が必要だと考えます。「教育」と「教育学」を多様な視点から考える。なるべく客観的な、そして具体的に比較的考察という立場から考察していこうと思っています。
     さて、前回に、「教育」が大きく変革して、そして人間に多大な影響を及ぼすであろうということをお話ししましたし、また日本と米国とを例に比較して、どうやら国によって「教育」の考え方やらが少しずつ違っているのではないかということについてもみてもらいました。書いてもらったリアクションペーパーでも、皆さんの中で国立大学附属高校や先進校出身でそういう例えば米国にも似た教育を受けてきたかたもいますし、また外国から留学で来ているかたや海外留学の経験のあるかたでそういう教育を体験している人もいるわけです。そういう人たちのなんと9割が「米国式の教育の方がいい」と答えている。少なくとも日本の教育に多少の不満を感じているのですね。すると私も加えて大多数の日本の教育を受けてきた人(のうちの多数)も「日本の教育がいい」と答えてもいいようなものですがそうではないようですね。いったいどういうことなのでしょうか。もちろん「両者のいいところをミックスして」といったごもっともな意見もあるし、また「日本の教育に誇りをもつべきだ」という意見もありましたが、この約300人の日本の教育を受けてきた皆さんは「米国式」「日本式」「ミックス」の三つがほぼ同数だったのです。なぜこんなにも不満かなにかがみられるのでしょうか。他国ではこういう調査をやるとどうなのでしょうかね。
     とにかく世界中で「教育」が行なわれているし、しかし一方で十分な教育が行なわれていないとか、なんらかの事情で「教育」のための施設がつくられていないところもある。また、「まちがった教育」というのが批判材料としてとりあげられることがあって、例えば「軍国主義的な教育」だとか、「排外的な教育」を行なう国もあるわけです。あるいは個人的な教育としても「洗脳」などもそういうまちがったものと言われたりもするわけです。戦前・戦時期の日本の教育などはその例で、戦後には「それ」が批判されて民主主義的な教育が求められたのですね。批判され、つくりかえられたというわけです。しかし例えばインドネシアのパンチェシェラのように、さらに規範的な教育もありますし、日本だけが世界で特異なのではないともいえるわけです。
     さて、今日から「教育の原理」という部分から、つまり教育の原理的な部分から、ベーシックから学んでいきます。「教育」の歴史上、とくに「教育者の養成」が始まって以来、こういうものがつくられていまして、要するに「教育」の必要性が説かれ、その目標・目的や方法、内容、効果などが考えられてきたのです。「教育」が「なぜ必要」で「どのようなものが必要か」を考える。それをベーシックから学んでいきたいと思います。しかし、それはそのままをつめこむのではなく、例えばなんらかの「教育原理」の本に書いてある内容をつめこむというのではないのです。「学ぶ」というのは検証することと考えています。「それ自体」を客観視していけるよう、多面的・多角的視点から思考をしていきましょう。
     レジュメにメールアドレスとホームページのURLをのせておきました。世界中のいろいろな大学でオフィスアワーや授業時間以外に相談や質問ができる機会が準備されていて、その中では教員がホームページやBBS(掲示板)などで疑問などに応えていくということも行なわれています。私もこちらには授業でしか来ていませんので、それでそういう応え方も準備しておきます。何かあったら質問をしてください。授業中の質問も歓迎します。
      ○教育の原理(根本的な、本質の部分。その理論)→教育とはなんであるか、なんのためのものか?
     (1)「教育」とは何か?
     単純に「辞書」の記述をみてみると、日本の辞書(『広辞苑』)の「教育」の項には「教え育てること。人を教えて知能をつけること。人間に他から意図をもって働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動」とある。たしかにイメージされる教育とはこういうものであるとも思える。しかし、英語の辞典で「education(educe)」を引いてみると、「潜在する性能を引き出すこと」とあり、二つを比べた時に違和感をもつことになる。こちらもたしかにそうあるべきものと思えるものであり、この二つは日米の教育のイメージとして想像してもらったもの(前回の資料の写真)と符合する。すると、少なくともこの「二つ」の教育があるというのだろうか。違った考え方があるというのだろうか。しかし、私は、どちらの部分がどれだけ重くされているかという違いだけであって、両国とも「どちらかだけ」ではないのだと考えて欲しい。
     次に「教育」の辞書的記述では二つに分かれたけれども、実際に行なわれている「教育」がどのようなものかをみてもらった。図表(資料)にあるように、教育の内容は「国語・算数(基礎的能力)」「理科・社会(科学の初歩)」「音楽・芸術(情操・芸術)」「体育・技術(技術力)」といった「教科教育」の部分と、人間関係の経験をつんでリーダーシップ等を養うための「教科外教育」の部分とに分けて考えることができるでしょう。これは「(かっこ内)」の部分をねらいとする、人間の諸能力を発達させるための「パーツ」というかそのレシピだとも考えられるわけです。たしかにこれらを身につけたらすばらしい人間になれるでしょう。そしてこれはどこの「国」でも同じことが行なわれているともいえます。国語という母語が違うだけで、あとは同じです。数字の概念などが違うなどはないわけです。
     すると、「同じ」である。しかしさきほどみたようにとらえかたは「違う」ようである。「教育」とは何か?
     これはわかるようで、しかし簡単にうまく説明できないようにも感じるわけです。そういう問いへの答えを、これまでの「教育原理」ではどのように説明されてきたのかということをみていきましょう。
     (2)「教育」の必要性
     ●過度なロマン主義?
     「教育」についての言説を「過度なロマン主義である」などといわれることがあります。例えば「教育学者」の主張に対して「現実的でない」や「ロマン主義である」とでもいうようにいわれることがある。前回の授業でいったように、哲学や思想にはその立場の蓄積がありますし、心理学にも臨床の積み重ねがある。社会学にもデータ分析があるし、歴史学にしてもなんにしても、よってたつセオリーや資料が構築されているわけです。経済学でも精神分析でもみんなそうで、例えば戦争・紛争などに対して様々な立場からみた意見が発されて、そしてそれなりに説得力をもつものとなる。しかし、「教育の問題」についてはどうでしょうか。
     次回あたりにとりあげますが、例えば最近の教育で注目されていることに「言語」の問題だとか(斎藤孝さんという人の著書が注目されています)「脳」の問題だとか(澤口俊之さんという人の研究が注目されています)があるのですが、そういう論者は「教育学者」ではないのです。また、教育改革国民会議というものがありましたが、いちおう識者を集めて21世紀の日本の教育を考えていくというものでしたが、そのメンバーになっている人にも「教育学者」は少なくて、そして具体的な提言で注目される人たちの中には「教育学者ではないのに教育論を発表する人」などが出てきています。慶応義塾大学幼稚舎長の金子郁容さんなどがそうですが、その提案はなかなか勉強になるものです。考えてみれば教育学者ではなくても教育者ではあるし、学問の自由もあります。「教育」の問題は「教育学者」だけのものではありません。しかしそうではあるとしても、あまりにも「教育学者」へのニーズが減っているのではないかとも思うのです。具体的にTVに出演するとかではなくて、どうも信...

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