教育学概論Ⅰ(人間と教育) ①

閲覧数2,105
ダウンロード数25
履歴確認

    • ページ数 : 5ページ
    • 全体公開

    資料紹介

    教育学概論Ⅰ(人間と教育) ①(2002年4月15日)
    初回の授業のため、ガイダンスとして以下のようなことを話した。
    ◇教育学への入門、教育学の立場はどういうものか ◇「教育」を客観的にみていく思考法 ◇導入:「教育学」や「教育(について)」は学ぶに値する学問か ◇これから「教育学」に興味をもってもらえればいい
    (3クラス担当のため話し方は違いもでているが、話したことがらは次のような内容である)
     今日が最初の授業で、初対面ですから、私にも皆さんにも多少の不安がまだあると思います。まず、私はこちらの大学は今年が初めてなのですが、まだ大学のシステムなりをよく知っていないですし、雰囲気にも慣れていない。皆さんはどんな講義についても同じでしょうけれど、「この授業は難しくないだろうか」「どんなことを学ぶのだろうか」という不安があると思います。簡単に言うと、この授業は読んで字のごとく「教育学」というもののおおよそについて説明していくというものです。教育学の入門だと思ってもらってもいい。
     しかし、こうして簡単に言ってみて、それで不安がとけるかというとそんなことはないはずで、まだわかったようでよくわからないという状態と思います。まずなによりも「教育学」自体がわかるようでわからないのではないでしょうか。まだ大学の講義の中でも「哲学」や「倫理学」「宗教」「経済学」や「外国語(英語など)」などは中・高校までの授業に含まれてきた部分もありますが、しかし「教育学」はこれまで「授業」としては受けてきていなかったのではないでしょうか。イレギュラーや例外としてはともかく、通常の授業としてはなかったと思いますし、ですから「何をするのか」がよくわからなくて不安だろうと思います。そしておそらく、どうやら「教員」になるための学問なのではないかなどと想像する人も多いのではないでしょうか。この予想は一面としては当たっています。
     しかし、皆さんは「教育学」は初めてかもしれませんが、「教育」ならいままで受けてきていますし、まさに「いま」もこうして大学に来て授業に参加しているわけです。その受けてきている「教育」というものについて客観的に考えていくモノサシ、理論、データを分析したものなどが「教育学」というものだと言っていいと思います。だからいままでは「受けて」いた立場でしたが、たしかに教員になれば「授業をする」立場にと変わるわけです。それは視点や考え方がかわってくるというもので、さらに他人を教育することへの意識や責任感も必要になります。少なくとも複数の立場を理解するという意味では客観的ですし、ですから「教職科目」として「教育学」があるのだともいえると思います。ただし私は「教職」のためだけにあるとは考えていません。十分に教養として役に立ち、また人間の形成や社会の問題などを考えていくのに有効な、「つかえる」学問であると思っています。半年から一年間の授業で皆さんが「教育学って面白い」「教育学ってつかえるかも」と思ってもらえるように授業をすすめていきたいと思っています。
     さて、皆さんは大学に入ってきて「不安」があるかもしれないけれども、また「期待」もあるのですよね。大学を希望どおりに入れなかった(不本意入学)などの不満があったり、ただなんとなく入ったという人もいるかもしれないですけど、それはどんな人間でも他人には言わなくても悩んだり、考えこんだり、揺らいだりすることはあることです。「自分って何?」とか、「生」とか「死」とかを考えることもあるでしょう。私も最近すばらしい人生の恩人を亡くしたば

    タグ

    資料の原本内容

    教育学概論Ⅰ(人間と教育) ①(2002年4月15日)
    初回の授業のため、ガイダンスとして以下のようなことを話した。
    ◇教育学への入門、教育学の立場はどういうものか ◇「教育」を客観的にみていく思考法 ◇導入:「教育学」や「教育(について)」は学ぶに値する学問か ◇これから「教育学」に興味をもってもらえればいい
    (3クラス担当のため話し方は違いもでているが、話したことがらは次のような内容である)
     今日が最初の授業で、初対面ですから、私にも皆さんにも多少の不安がまだあると思います。まず、私はこちらの大学は今年が初めてなのですが、まだ大学のシステムなりをよく知っていないですし、雰囲気にも慣れていない。皆さんはどんな講義についても同じでしょうけれど、「この授業は難しくないだろうか」「どんなことを学ぶのだろうか」という不安があると思います。簡単に言うと、この授業は読んで字のごとく「教育学」というもののおおよそについて説明していくというものです。教育学の入門だと思ってもらってもいい。
     しかし、こうして簡単に言ってみて、それで不安がとけるかというとそんなことはないはずで、まだわかったようでよくわからないという状態と思います。まずなによりも「教育学」自体がわかるようでわからないのではないでしょうか。まだ大学の講義の中でも「哲学」や「倫理学」「宗教」「経済学」や「外国語(英語など)」などは中・高校までの授業に含まれてきた部分もありますが、しかし「教育学」はこれまで「授業」としては受けてきていなかったのではないでしょうか。イレギュラーや例外としてはともかく、通常の授業としてはなかったと思いますし、ですから「何をするのか」がよくわからなくて不安だろうと思います。そしておそらく、どうやら「教員」になるための学問なのではないかなどと想像する人も多いのではないでしょうか。この予想は一面としては当たっています。
     しかし、皆さんは「教育学」は初めてかもしれませんが、「教育」ならいままで受けてきていますし、まさに「いま」もこうして大学に来て授業に参加しているわけです。その受けてきている「教育」というものについて客観的に考えていくモノサシ、理論、データを分析したものなどが「教育学」というものだと言っていいと思います。だからいままでは「受けて」いた立場でしたが、たしかに教員になれば「授業をする」立場にと変わるわけです。それは視点や考え方がかわってくるというもので、さらに他人を教育することへの意識や責任感も必要になります。少なくとも複数の立場を理解するという意味では客観的ですし、ですから「教職科目」として「教育学」があるのだともいえると思います。ただし私は「教職」のためだけにあるとは考えていません。十分に教養として役に立ち、また人間の形成や社会の問題などを考えていくのに有効な、「つかえる」学問であると思っています。半年から一年間の授業で皆さんが「教育学って面白い」「教育学ってつかえるかも」と思ってもらえるように授業をすすめていきたいと思っています。
     さて、皆さんは大学に入ってきて「不安」があるかもしれないけれども、また「期待」もあるのですよね。大学を希望どおりに入れなかった(不本意入学)などの不満があったり、ただなんとなく入ったという人もいるかもしれないですけど、それはどんな人間でも他人には言わなくても悩んだり、考えこんだり、揺らいだりすることはあることです。「自分って何?」とか、「生」とか「死」とかを考えることもあるでしょう。私も最近すばらしい人生の恩人を亡くしたばかりでして、毎日「生き方」というものを考えてしまいます。あとは「愛」とか「人生」とか、あるいは「職業」や「未来」まで、いろいろ思い悩むことはあるでしょう。そういう悩みへ直接じゃなくてもなんらかの目からウロコが落ちる状態や、ハッとさせてくれる考え方や言葉・・・、そういうものに、本でもいいのですが「出会えないよりは出会えた方がいい」と思います。僕も10数年前は大学生であったわけで、そのときそう思っていました。これはもちろん受けとる側がポジティブになる必要もあるかもしれませんが、とにかく一つでも多くそういうものに触れる機会があった方がいいかと思います。「教育学」が皆さんにとってそういうものであるかはわかりませんが、考えていくとけっこう面白いものであるとおすすめしておきます。
     人間を理解していく、あるいは人間の様々な悩みに応えるための学問はたくさんあります。「哲学」は考えるということや、善悪の判断や価値基準をとらえるのに有効ですし、「心理学」でカウンセリングの技術を学びたいという学生も多くいます。私のように年齢を重ねて身体の調子に不安がでてくると「医学」や健康のため「生理学」などによって身体のことを深く考えて対応していこうとすることも必要かもしれません。あるいは人間の生活や未来をみていくために統計学的分析を試みて「社会学」の立場から考えてみたり、考古学や文化人類学、広義の「歴史学」によって人間の世界そのものを理解しようなんていうのもある。詩や小説などに書かれたものへの理解を深め考察していく「文学」や芸術も大切なものですし、自然科学的に「生物学」の立場から人間の存在や行為・行動そのものを把握していく方向だってありえます。他にもいろいろあります。しかし「教育学」も、人生や個人や社会や歴史を考えていくのに有効な面がたくさんありますので、今後そういったお話しをしていきたいと考えております。
     もう一度言いますが、いままで受けてきた、そこにいたという「教育」を客観視しながら、いろんな対照の鏡をつかって「どういうものなのか」を考えていくのが「教育学」です。自分の体験からはじめられるし、それを様々な角度から考える。そして今ある「教育」についても自分の体験やそれを客観視していくことから得た視点などから考えていくようになる。人間の登場しない「教育」はありませんし、いまここで私の話をききとって理解できる言語能力や知覚の力も教育の成果として発達してきたわけです。できなかったことが、できるようになった。練習の成果なのか、慣れなのか、経験なのか。すぐに何でもできる人もいればそうでない人もいる。この差も環境や教育の効果という面もあるのではないでしょうか。「教育学」は人間形成の学でもあり、きわめて人間学だとも思います。こう考えてみれば、「教育学」というものも、なかなか面白そうなものに思えないでしょうか。
     
     さて、それでは、配布したプリントをもとにして、「教育学」が考えていくに値するものなのかを、・・・大学の一授業として学ぶにふさわしいものかを、講義の「導入」としてみていただこうと思います。
     「教育」とひとことでいうと、それはそれでなんらかのイメージとして把握されるわけです。皆さんが受けてきたものでいえば「学校」や「授業」というものが「教育」の象徴としてイメージされるのではないでしょうか。そこで資料として、絵図・錦絵などを数枚あげておきました。
     プリント左上の二枚は江戸時代(近世)の庶民教育の場「寺子屋」での手習い(授業)のシーンです。国語や習字の時間と理解していただいてもいいのですが、この二枚の絵を比較してみます。まず現代と比べればいうもでもないことですが「衣服」なりが違っているわけです。「和服(装)」ですし、帯刀(刀を携えて)してもいます。髪形が髷が結ってあって、ひとことでいえば「時代が違う」となるのでしょう。たしかにいまとは時代は違ったのですね。それで二枚の「同じ時代」の絵の差ですが、左は男の教師(師匠)が男児に、右は女性(師匠)が女児にと教えているシーンでして、男女別学が描かれています。共学の所もあったかと思いますが、一般的には男女別学だったと考えていまして、後にわざわざ「これからは男女共学とする」といわれたぐらいですからそうであったと思えます。
     そして他にはどのような特徴がみられるでしょうか。まず、椅子に座っていないで、床(板や畳)に座っている。そして整然と整列してはいませんね。バラバラに各自が自分の作業をしている。なかには友だちのところに顔を出したり、ちょっかいを出しているかのようなシーンも描かれている。現在とはかなり異なっているわけです。
     左の下にある二枚の絵は明治時代(近代)の初等教育(小学校)の授業のシーンです。これには「教室」の前の部分に黒板や掛図があって、教師がそこに立っていて棒で指し示して教えているのですね。服装や髪形は「いま」と同じになっています。生徒の中にも「洋服(装)」の子がいて、「椅子」と「机」を使って全員一律に前を向くように座っている。さらに男女共学にもなっています。まさにいまの授業と同じ形態の「一斉授業」になっているわけです。ですから、日本の教育の100年史なり120年史なりが書かれる場合、そのスタート時点がここ明治期であるとされるのですね。すると、上の二枚の近世の教育とは明確に区別されることになる。
     たしかに見てわかりやすいほど違うわけです。納得しやすいかもしれない。そういう事実はあったと知ることはできるし、歴史の授業で学んでいるかもしれない。しかし、「そのまま」を知ることは「考える」こととは違うと思います。まるっきり「別のもの」に変わったのだとスッキリわりきって受けとっていいのでしょうか。では、年代、いつ変わったのかを考えてみたらどうでしょうか。
     ○寺子屋(江戸時代:近世)・男女別・和装・床に座る・個別の教育(1860年代まで)
     ○小学校(明治時代:近代)・共学・洋...

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。