桜の花が咲くころにメディアがいっせいに特集を組むものといえば、「とんでもない成人式」と、そう言われるようになってもう久しい。私達の世代の人間は、そういった成人式の形骸化とまさにリアルタイムで接してきたため、世の中の批判的な視線に対してそれを「向けられる対象」として、いまも青年期を過ごしている。今回は、形骸化された成人式を、客観的にみるだけではなく当事者として捉えることで、私達の世代の様相と通過儀礼とのかかわりを明らかにしていきたい。そのために、具体的な知見から、「二十歳」という年齢の持つ様々な意味合いを考察する必要がある。
私が成人式に参列したのは、三年前である。振り袖を着て写真を撮り、雪の降るなか式典に参加したはずなのだが、前後に会った友達の顔は覚えていても、肝心の式典の内容はさっぱり覚えていない。本当に自分自身で式に出席したのかも、定かではないのである。他に記憶にあるものと言えば、一部の出席者の異様な格好、態度である。メディアで取り沙汰されるほどではないものの、厳かな場であるという認識を持っていたならば、あのような服装や態度はあり得なかったことだろう。
しかしながら、そういっ...