七世紀中頃、日本では「大化の改新」と呼ばれる大改革があった。それはこれまでの制度からまったく別の制度へと移行するための政治改革の流れの一つの転機であり、それが為されるまでに多大な時間を必要としたものであった。
当時の東アジアには、隋・唐と巨大な中央集権国家が誕生していた。そして、唐の東方進出に対抗する為に朝鮮半島の三国(百済・高句麗・新羅)は権力を中央に集中させていた。この情報と共に、遣隋使として隋に渡った留学生が帰国し、唐の強大な国力やそれを生み出した律令法に基づく中央集権体制についての情報や文化を体験談として朝廷に伝えた。それにより、倭は早急な対応が必要とされていた。
一方倭の内情はというと、当時の制度は氏姓制度と呼ばれ、中央や地方の大小様々な氏がそれぞれ朝廷の大王(天皇)から承認された姓を持ち、朝廷での職務を世襲して土地・人民を私物として支配する体制であった。また朝廷内では、蘇我氏が絶対的な権力を掌握していた頃で、その政治は専横政治であった。しかし、時期天皇の資格を持っていた山背大兄王とその一族を蘇我入鹿が亡き者とした事件をきっかけに、蘇我氏の専横に対して諸氏族は不満を募ら...