1872年(明治5)年8月に「学制」が頒布され、近代学校教育制度がスタートした。小学校教員の養成は、各府県に設置された師範学校で行い、中等学校の教員の養成は、高等師範学校が主に行い、これを教員検定制度が補う形であった。その養成は基本的に閉鎖的な直接養成制度であり、国の政策が直接養成機関に及ぶ仕組みであった。授業料等の学費は公費による一方、卒業後は指定された学校への就職が義務づけられた。この師範学校制度が教員の需要に十分対応できていたわけではなく、訓導と呼ばれる正規職員が不足し、授業生とか授業生補と呼ばれるもので対応していた。この教員不足を補うために、教員検定制度が導入されたのである。
1881(明治14)年には「小学校教員心得」を定め、16項目にわたって教員のあるべき基本的性格を記している。1886(明治19)年4月に制定された師範学校令は、当時の文部大臣、森有礼の天皇制国家を担う臣民育成を教師に期待し、その気質として「順良親愛威重の気質」が示され、兵式体操と寄宿舎における兵式訓練によってその育成が図られた。服従と規律を絶対化する教育は、軍隊教育をモデルとした教師の育成の中で具体化...