スターリズムの経済システムは戦争遂行に適合的であった。モスクワ近郊へのドイツ軍の進撃は国家存亡の危機を意味しこの危機は、経済問題の決定いっそう集権化させようとする決意と切迫感を煽り立てた。これが具体的な形をとったのが、ドイツ侵攻から八日後、一九四一年六月三〇日の国家防衛委員会(GKO)の設立であった。国家防衛委員会は、新たに人民委員会議議長すなわちスターリンを長として経済戦線における最高レベルの活動をすべて統括する中心となった。経済の優先順位は、少なくとも消費財生産が非常に低い位置づけしか与えられなかったという点で戦争中も戦前も変わるところがなかった。国民をさらに生産に動員すべく、四半期ごとや月ごとの計画が導入された。一九四二年までには国民所得の五五%を「軍事関連」が占めるに至り、これは軍需生産の著しい拡大を反映した数字であった。一九四二年、ソ連は航空機を六割多く、また戦車を三・七倍生産した。こうした結果、消費財生産に資源を振り向ける余地はほとんどなくなった。そして、地域によって食糧じじょうが悪化した。一九四三年の不作はアメリカからの輸入によっていくらか緩和われたがカザフスタンのいくつ...