「霊山の釈迦のみまへにちぎりてし真如くちせずあひ見つるかな(行基)」「かびらゑにともにちぎりしかひありて文殊のみかほあひ見つるかな(婆羅門)」の贈答歌を解釈せよ。 行基と婆羅門僧正との贈答歌[『拾遺和歌集』巻二十、一三四八(大僧正行基)、一三四九(婆羅門僧正)]について、それに関する説話を交えつつ解釈していく。
この二首が読まれたのは、東大寺盧遮那仏の造顕が終わり、その落慶供養の時である。順を追ってみていくと、天平十五年(七四三年)、聖武天皇により大仏の造像が発願され、行基は大仏造営の歓進の中心となり、その功績によって天平十七年(七四五年)に大僧正となる。行基は聖武天皇から、この盧遮那仏の開眼供養の講師に任命されるが、「自分はその任に堪えられません。もうすぐ外国から講師に相応しい大師(聖者)が到来されることでしょう。」という予言を奏上するのである。
開眼供養がいよいよ目前に迫ったある日、行基は摂津国の難波に、「大師がおいでになるので迎えに参ります。」と言って、百人の僧とともに船に乗り、また多くの役人、楽人を引き連れて、歓迎奏楽を奏でつつ難波の船着場に出向いた。いざ着いてみると、し...