設 題
鎌倉幕府と執権政治について。
治承4(1180)年8月、平時の乱後に配流された伊豆で以仁王の令旨を受け兵を挙げた源頼朝は、源氏としてのその権威を利用して領主権力の拡大をめざす関東武士団の支持をえて、またたくまに南関東に覇権を確立、10月鎌倉に拠点を定め、11月に和田義盛を侍所に別当に任じる。内乱の真っ直中に政府支配の足場が築かれたのである。
後白河上皇が新たなパートナーに選択したのは頼朝であった。後白河は寿永2(1183)年10月に東海道・東山道の支配を委ねる宣旨を頼朝に発し、かれのえた権力基盤を公認するとともに、大量の平家没官領をあたえて幕府財政基盤の確立を助けた。頼朝もまた全国的規模の軍事支配体制
づくりにむけて後白河との交渉を利用し、対立関係にはいった義経に後白河が頼朝追討令を発したことへの責任追求を突破口に、文治元(1185)年、諸国の守護・地頭設置を実現する。このときに頼朝のえた権威の一つの兵粮米徴収は公家・寺社の反対により翌年停止され、また地頭設置についても謀反人とされた義経・源行家の所領に限定され、守護の職権も謀反人・殺害人のつい歩、京都大番役の催促に限定さ...