憲法に定める自由権

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    資料の原本内容

       「憲法に定める自由権(特に精神的自由権)について述べよ。」
     本稿では、日本国憲法によって定められている自由権において述べるとともに、その中でも特に精神的自由権に重点を置き述べることとする。
    1. 「自由権」は、近代憲法の中で中核的な位置を占めるとともに、現在の日本国憲法の中でも中核的な位置を占めている。まずここでは、自由権の成り立ちについて述べていく。
    2. 人権思想は主としてヨーロッパで展開したものであり、その歴史的背景には、キリスト教徒啓蒙思想家らの影響があり、あるいは協会組織や絶対王政下で顕在化する身分制との対立を抜きには考えることができないものである。人権の中核は、以上の歴史的背景から、国家が個人領域に権力的に介入することを排除して個人の自由な意思決定と活動を補償する「自由権」となり、法の下の平等観念がそれを支える権利的概念となったものである。その中核となるのが「精神的自由」であり、特に絶対王政を背景とした宗教的弾圧とそれへの抵抗という、人権の発展過程の歴史的背景から生み出された必然的な産物である。
     わが国における状況を省みても、旧大日本帝国憲法下における「治安維持法」や天皇機関説をめぐる滝川事件などに代表されるように、身体的拘束や過酷な取調べがあったこと、さらにその過程で「思想・良心の自由」や「学問・研究の自由」の侵害といった事例が少なくなかったがゆえに、「身体的自由」に関する権利とともに、現行憲法がそれらを保障する意義及び義務性は一層重要なものとして考えられる。
     日本国憲法では、自由権の内容として「精神的自由」「身体的自由」「経済的自由」の三点を規定しており、その各内容と現行憲法における主な該当条文を列挙すると次のようになる。第一に、『精神的自由』を保障するものとして、「思想及び良心の自由 (19条)」「信教の自由 (20条)」「集会・結社・表現の自由、通信の秘密の保障(21条)」「学問の自由(23条)」の保障規定が存在する。第二に、「身体的自由」を保障するものとして、「奴隷的拘束と苦役からの自由(18条)」「法的手続きの保障(31条)」「不法に逮捕・抑留・拘禁されない権利(33・34条)」「不法に侵入・捜索・押収を受けない権利(35条)」「拷問及び残虐刑の禁止(36条)」「自白強要の禁止(38条)」「二重処罰の禁止(39条)」などである。第三に、「経済的自由」を保障するものとして、「居住移転と職業選択の自由(22条)」「財産権の不可侵(29条)」が指摘される。
     上記の三点に大別される人権保障規定の内容をそれぞれ概観すると次のようになる。
    まず「精神的自由」に関する保障規定は、三点の中でも中核的であり、その内容は後に詳述する。次に「身体的自由」に関する保障規定は、具体的身体の拘束や刑罰を課す場合の、その内容や必要的手続きに関するものであり、歴史的には精神的自由がその身体の拘束や刑罰によって侵奪された経緯を考えれば、それが自由権そのものの現実的な基盤となっていることは明らかとなる。「経済的自由」は、当初は経済的な身分関係や土地制度からの解放を意味するものであったが、現代において、それはそのまま現代市民の自由な経済活動を提供するための基盤を提供し、自由権の基底を提供するものへと変化している。
    3.  このような内容を含む自由権のうち、先に指摘した中核的な位置を占めている「精神的自由」の内容について、次に詳述していくこととする。
     第一の内容である「思想・良心の自由」の保障は、いかなる国家観・世界観・人生観を持っていても、それが内心の領域に留まる限りは絶対に自由であり、国家権力は内心の思想に基づいて不利益を課したり、特定の思想を禁止したりすることはできないということを意味している。これは、沈黙の自由が保障されているということを含んでおり、それが心の中に存在する以上は「絶対無制約保障」されるのである。
     第二に「信教の自由」は、「信仰の自由」「宗教的行為の自由」「宗教的結社の自由」の保障をその内容としている。「信仰の自由」は、宗教を信仰する、または信仰しないこと、信仰する宗教を選択し、または変更することについて、個人が任意に決定する自由を万人に保障するものである。次の「宗教的行為の自由」とは、信仰に関して、個人が単独でまたは他のものと共同して、宗教上の祝典・儀式・行事その他布教等を任意に行える自由あるいは行わない自由を意味している。最後の「宗教的結社の自由」とは、特定の宗教を宣伝し、または共同で宗教的行為を行うことを目的とする団体を結成する自由を保障するということであり、先の「宗教的行為の自由」「結社の自由(21条)」とも関係性がある。
     「集会・結社・表現の自由、通信の秘密の保障」は「表現の自由」を中核とし、対抗的権利としての「知る権利」をも含むものである。民主主義的な社会において個人は言論活動を通じて自己の人格を発展させ、国民として政治的意思決定過程に参加するものである以上、表現の自由とその前提条件となる知る権利は、十分に保障される必要のあるものであり、マスメディアの発達と福祉国家化の帰結としての官僚制国家の成立によって政治的意思決定過程の不透明さが指摘される状況にあっては、特に重要な権利として指摘できよう。「集会・結社の自由」「通信の秘密」は、ともにそれが表現の自由の一環であると同時に、政治的自由の保障がそこに潜んでいると解されるがゆえに同様に保障されなければならないのである。
     「学問の自由」は、「学問研究の自由」「研究発表の自由」「教授の自由」を内容とする。「学問研究の自由」は、真理の発見・探求を目的とする研究の自由であり、それ自体が思想の自由の一部を構成している。「研究発表の自由」は「教授の自由」とともに、学問的研究の成果が一般市民への還元を目的とする以上保障されなければならないものであり、それ自体が表現の自由の一部と言い換えることができる。しかし判例・通説では「教授の自由」に関して、大学その他の高等教育研究機関には無制約的だが、それ以下の教育機関については、制限的な態度であったのである。
    4. 最後に、人権の全体的構造を見直すとともに、制約原理の基本的な考え方を指摘することで本稿のまとめとする。
     わが国の憲法は、欧米型の自然権的人権思想の上に立脚しており、基本的人権の最大限の尊重をその憲法原理として掲げている。自由権はその中核的な位置を占め、精神的自由権がその核心部分を構成している。なおこの精神的自由権はその具体的行為形態から「内面的精神活動」の領域と「外面的精神活動」の領域に二分され、それが純粋に個人の内心的な活動なのか、あるいはその表現形態が外部に表出されるものであるかで分岐点が作られている。人権という考え方そのものが、内在的に「権利の濫用の禁止」「公共の福祉」の二点によって制約を伴う以上、ある精神活動が外部に現れ、他人の人権との衝突を考慮しなければならない場合には、自動的に制約は可能となる。
    参考文献
    中島恒雄 『新・社会福祉要説』 ミネルヴァ書房 2006
    伊藤正巳 『憲法入門第4版補訂版』

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