レジュメ:韓国『国史』教科書、第8章「主権守護運動の展開」

閲覧数2,250
ダウンロード数8
履歴確認

    • ページ数 : 6ページ
    • 全体公開

    資料紹介

    三橋広夫訳, 2005,『韓国の中学校歴史教科書:中学校国定国史』より
    Ⅷ「主権守護運動の展開」pp. 220-253
    * ここでは、『【日韓共通教材】日韓交流の歴史―先史から現代まで』(日本と韓国の研究者・教師が作った高校用歴史教材)との比較を通して、韓国の歴史教科書の特徴を見ていく。
    * 以下、韓国の歴史教科書は韓国『国史』、日韓共通教材は『日韓交流の歴史』と表記。
    1.扱われている出来事
    (『国史』p. 221「主要史実」、『日韓交流の歴史』p. 160「できごと」年表より*)
    韓国『国史』
    『日韓交流の歴史』
    1895
    乙未事変
    1895
    韓城の日本人公使などが明成皇后を殺害
    1896
    『独立新聞』創刊
    1896
    朝鮮の高宗がロシア公使館に移る
     
    独立協会設立
     
    朝鮮で独立協会結成
    1897
    大韓帝国設立
    1897
    朝鮮(韓国)で大韓帝国成立
    1898
    万民共同会開催
     
     
     
    『皇城新聞』創刊
     
     
    1899
    京仁線開通
     
     
    1904
    京釜線竣工
    1904
    日露戦争**始まる
     
     
     
    第1次日韓***協約締結
    1905
    乙巳条約
    1905
    第2次日韓協約(乙巳

    資料の原本内容

    090914韓国社会と文化スタディ

    作成:齊藤あずみ
    三橋広夫訳, 2005,『韓国の中学校歴史教科書:中学校国定国史』より

    Ⅷ「主権守護運動の展開」pp. 220-253
    * ここでは、『【日韓共通教材】日韓交流の歴史―先史から現代まで』(日本と韓国の研究者・教師が作った高校用歴史教材)との比較を通して、韓国の歴史教科書の特徴を見ていく。

    * 以下、韓国の歴史教科書は韓国『国史』、日韓共通教材は『日韓交流の歴史』と表記。
    1.扱われている出来事

    (『国史』p. 221「主要史実」、『日韓交流の歴史』p. 160「できごと」年表より*)

    韓国『国史』

    『日韓交流の歴史』

    1895

    乙未事変

    1895

    韓城の日本人公使などが明成皇后を殺害

    1896

    『独立新聞』創刊

    1896

    朝鮮の高宗がロシア公使館に移る

     

    独立協会設立

     

    朝鮮で独立協会結成

    1897

    大韓帝国設立

    1897

    朝鮮(韓国)で大韓帝国成立

    1898

    万民共同会開催

     

     

     

    『皇城新聞』創刊

     

     

    1899

    京仁線開通

     

     

    1904

    京釜線竣工

    1904

    日露戦争**始まる

     

     

     

    第1次日韓***協約締結

    1905

    乙巳条約

    1905

    第2次日韓協約(乙巳条約)締結

     

     

    1906

    日本が韓国に統監府を置き伊藤博文が初代統監となる

    1907

    国債報償運動

    1907

    韓国でハーグ特使事件

     

    ハーグ特使派遣

     

    第3次日韓協約(丁未7条約)締結

     

    高宗皇帝退位

     

    韓国で義兵闘争・啓蒙運動激化

     

    軍隊解散

     

     

    1909

    安重根義士の義挙

    1909

    韓国人の安重根がハルビンで伊藤博文を射殺

    1910

    日帝の国権侵奪

    1910

    日本が韓国を「併合」する

     

     

     

    朝鮮総督府開庁

    * 網かけは同じと言える出来事を扱った部分

    ** 韓国語版では「露日戦争」

    *** 韓国語版では「日韓」はすべて「韓日」になっている
    1.1.両年表の比較

    ①『国史』の年表にあって『日韓交流の歴史』の年表にないもの

    1896年 『独立新聞』創刊

    1898年 万民共同会開催

    1898年 『皇城新聞』創刊

    1899年 京仁線開通

    1904年 京釜線竣工
    ② 『日韓交流の歴史』の年表にあって『国史』の年表にないもの

    1896年 朝鮮の高宗がロシア公使館に移る

    1904年 日露戦争始まる

    1904年 第1次日韓協約締結

    1906年 日本が韓国に統監府を置き伊藤博文が初代統監となる

    1907年 第3次日韓協約(丁未7条約)締結

    1907年 韓国で義兵闘争・啓蒙運動激化

    1910年 朝鮮総督府開庁
    ③ 考察

    扱っている出来事の地理的範囲の違い…(当然かもしれないが)韓国『国史』は韓国国内(と認知される範囲)でのできごとが「主要史実」として取り上げられ、『日韓交流の歴史』では日本と韓国の主要人物が、動いた地理的な範囲における出来事が取り上げられている。これらの点から、前者は(比較的)土地中心的、後者は人物中心的な歴史観を持っていると言えるかもしれない。

    名称への気遣い…『国史』では「乙未事変」となっているできごとが、他方では「韓城の日本人公使などが明成皇后を殺害」となっているなど、『日韓交流の歴史』では日韓で名称が違う出来事や、その名称に国ごとのバイアスがかかっている(と思われる)ものに関しては、二つを併記または事件の流れを記述するという配慮がなされている。
    2.本文の違い

    2.1.章立て

    『国史』

    『日韓交流の歴史』

    Ⅷ 主権守護運動の展開

    第9章 西洋の衝撃と東アジアの対応

    1895-1910

    1854-1910

    別の章

    1.開国と不平等条約の締結

    別の章

    2.日朝関係の展開と摩擦

    1.独立運動と大韓帝国

    3.日清戦争と大韓帝国の成立

    2.日帝の侵略と義兵闘争

    4.日露戦争と統監政治
    5.抗日闘争と大韓帝国の主権喪失

    3.愛国啓蒙運動

    該当ページなし

    * 網かけ部分が重複している記事
    2.2.それぞれの記事

    * 同じ出来事を扱っていると言える部分を取り上げて、その記述の違いを調べてみた。各表の2段目はその記事が扱われている項の名前とそのページ数。
    ① 「乙未事変」または「韓城の日本人公使などが明成皇后を殺害」

    『国史』

    『日韓交流の歴史』

    乙未事変と断髪令(p. 224)

    明成皇后殺害と抗日義兵(p. 188)

    朝鮮に対する侵略政策を推し進めていた日本は朝鮮のこのような動きにひどく当惑し、明成皇后は日本の朝鮮侵略に妨害となる人物と見られた。そうして日本公使は日本軍と日本人のごろつきを動員して王宮に侵入し、明成皇后を殺害するという蛮行を犯した。これを乙未事変という(1895年)。

    三国干渉の後、ロシアが朝鮮政府に大きな影響力を持つようになった。日本公使の三浦梧楼(予備役陸軍中将)は、大院君を擁して親日的な政権を作ろうと、日本軍守備隊や大陸浪人らを景福宮に乱入させ、明成皇后(閔妃・高宗の后)を殺害した。
    ② 「独立協会の活動」

    『国史』

    『日韓交流の歴史』

    「独立協会の活動」(pp. 226-227)

    「独立協会の活動」(pp. 188-189)

    外勢の浸透が続いて国の自主権がひどく脅かされると、国民の間に自主独立を守ろうとする運動が起きた。そうして『独立新聞』を刊行していた徐載弼と開化派知識人たちが中心となって、独立協会を組織した(1896年)。

     初期の独立協会には政府の高官も会員として参加していたが、次第に民間人が率いていくようになり、地方にも支部が組織されて、全国的な団体に発展した。独立協会は会員資格に制限を設けず、学者、承認、農民、労働者ばかりか、社会的に冷遇されていた階層まで参加した。

    独立協会の活動方向は、国民を啓蒙して彼らを政治活動に参加させて国の自主独立を守り、国民の権利を確立し、改革を通して国を富強にしようとするものだった。

    このような時、アメリカへ亡命していた徐載弼が帰国し、1896年に初めてのハングルだけを用いた新聞『独立新聞』を創刊し、独立協会を設立した。独立協会は徐載弼をはじめとした近代思想と改革思想を持った進歩的知識人によって指導された。(中略)その後、独立協会は国権守護運動や自由と民権の拡張を求める運動を行う政治団体に転換していった。
    ③ 大韓帝国の成立

    『国史』

    『日韓交流の歴史』

    大韓帝国の設立(p. 229)

    大韓帝国の設立(p. 189)

     独立協会を中心に国の自主独立を主張する国民の声が次第に高まると、ロシア公館にとどまっていた高宗の還宮を要求する国民世論が強く起きた。このような雰囲気に助けられて、高宗は1年ぶりに慶運宮(徳寿宮)に還宮した。

     高宗はそれまで落ちていた国の威信を高めるため、国号を大韓帝国に、年号を光武と定め、皇帝即位式を挙行して自主国家の姿を整えた(1897年)。

     政治改革に対する内外の世論の高まりの中で、高宗は1897年に慶運宮(現在の徳寿宮)に帰り、元号を光武と変え、国号を大韓と改め、皇帝に即位し、自主独立の国家であることを内外に宣布した。大韓帝国は急進的な改革を批判しつつ漸進的な改革を追及し、旧制度によって王権の復権と強化を図ろうとした。そして、大韓帝国は皇帝による専制政治国家であり、皇帝の権限は無限であることを強調する大韓帝国国制を定めた。
    ④ 乙巳条約または第2次日韓協約

    『国史』

    『日韓交流の歴史』

    乙巳条約(p. 235)

    第2次日韓協約(乙巳条約)と統監府の設置(p. 195-196)

     露日戦争で勝利した日本は我が国に対する侵略を本格的におし進めた。そうして我が国の外交権を奪い、ソウルに統監府を設置することを主な内容とする乙巳条約を強要した(1905年)。

    日本政府は英・米・露に韓国支配を承認させた後、1905年11月に韓国政府と第2次日韓協約(乙巳条約)を結んで保護国とした。
    ⑤ ハーグ特使事件

    『国史』

    『日韓交流の歴史』

    乙巳条約反対闘争(pp. 235-237)

    高宗のハーグ特使派遣(pp. 199-200)

    乙巳条約に反対する民族の動きが展開される中、皇帝高宗は条約締結が無効であることを宣言し、国際社会に独立国家としての正当性を訴えた。(中略)そして第2回万国平和会議が開かれていたオランダのハーグに李相卨、李ジュン、李ウィジョンを特使として派遣して、乙巳条約が無効であることを国際社会に知らせようとした(1907年)。

    第2次日韓協約(乙巳条約)に対する反対運動が激しく起こる中で、条約の無効を主張していた高宗は、1907年オランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議に、日本の侵略の事実を世界に知らせる目的で3名の特使を派遣した。
    ⑥ 安重根について

    『国史』

    『日韓交流の歴史』

    義挙活動(p. 238)

    抗日義兵戦争の展開(pp. 201-203)

    義兵将として国内外で抗日戦を展開していた安重根は、初代統監としてわが国侵略の先頭に立っていた伊藤博文がロシアの代表と会談するためハルビンに到着したとき、彼を射殺して民族独立の意思を明らかに示した(1909年)。

    一方、義兵として活動した安重根は、1909年満州のハルビンで初代統監であった伊藤博文を射殺した。

    安重根は裁判過程で日本の侵略を糾弾し、韓国の独立を主張し...

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。