※参考資料としてお使いください。
律令国家から王朝国家体制への転換について述べる。律令国家は積極的に蝦夷支配をすすめ、多くの城柵が東北地方各地におかれた。支配に服した蝦夷の一部は俘囚として内地に送られ、逆に東国を中心とする内地の民が柵戸として移住させられ開墾にあたった。城柵では蝦夷に対する饗給も行われ、帰順をすすめた。こうした中央勢力との接触で蝦夷社会では急速な農耕化と階層分化がすすめ、内部には政治的支配層が生まれつつあった。蝦夷社会の支配をめぐり、成長しつつある在地勢力と中央勢力が正面衝突することとなった。唐が衰退し新羅との緊張がゆるむという国際関係の変化も、蝦夷に大規模な軍事力をふりむけることを可能にした。征夷軍は首長阿弓流為の軍に大敗するが、その後、坂之上田村麻呂が登用され、ようやく延暦二十一年、蝦夷社会の中心地である北上川中流域に胆沢城を築き、氾濫はほぼ鎮圧された。藤原緒嗣の進言によって、以後の征討は中止され、蝦夷の内民化がすすんだ。次に蔵人所の成立について述べる。八百十年、上皇が平城遷都をくわだてるにいたって、嵯峨は上皇側近の藤原仲成・薬子の兄弟を討ち、平城上皇は出家して皇権の分裂は解消された。以後、公的には...