まず、九世紀文学文化の特色についてだが、九世紀は、七世紀に開始された遣唐使派遣が続いていたことからわかるように、唐文化がいまだ日本に影響を及ぼしていた時代である。九世紀の大半はそれが文学にも現れており、漢詩が盛んであった。嵯峨天皇の命による『凌雲集』、等の勅撰三集をはじめとして、空海の『性霊集』がその代表である。一方で、和歌は『続日本後紀』の中に散見するものの書物としては成立したものはない。このように、九世紀の大半においては、漢詩が文学の中心になっていた。その漢詩文化の中心を担っていたのが嵯峨天皇である。天皇は、朝廷において絶対の権威を持っていた。天皇は、『凌雲集』等に約百首の漢詩を残し、また三蹟の一人として名を残すなど文化人でもあり、その天皇が漢詩文化をリードしていたのである。
しかし、九世紀の最後半になると、その状況に変化が起きる。和歌が再興してくるのである。要因としては、遣唐使派遣停止を象徴とする、唐文化の影響の衰退である。遣唐使派遣停止は寛平六年(八九四)のことであるが、それ以前からも約半世紀、遣唐使は派遣されておらず、少しずつ、唐文化の影響は薄れていた。その一方の国風と呼...