『古事記』と『日本書紀』におけるヤマト
タケルと父の景行天皇との関係の相違を中心
にこの課題について考えてみたい。『古事記』
では征西の場面で、小碓命(ヤマトタケル)
が天皇に兄の大碓命の説得を命じられたが、
捕まえ手足をちぎり、こもに詰めてしまう。
このことから天皇はヤマトタケルの性格が荒
いことを恐れ、遠ざける様に、熊曽討伐に送
り出している。そして、帰還に際しては特に
記述はない。一方『日本書紀』においては、
十六歳のヤマトタケルを熊曽征伐に派遣する
とだけ、記述され、兄を殺害したという説話
は出ていない。さらに天皇は、ヤマトタケル
を征伐に派遣する前に、熊曽討伐を行なって
いる。そして、天皇はヤマトタケルの功績を
褒め、寵愛したとなっている。
次に東征の場面であるが、『古事記』では、熊曽、出雲建の討伐を終え、帰還してすぐ、ヤマトタケルに東国十二道の平定を命じる。ヤマトタケルは、伊勢神宮で斎王をしていた叔母の倭姫命に天皇は私が死ぬことを望んでおられる。と泣いて訴えながら出征していく。一方『日本書紀』では、東征の指揮者にヤマトタケルは兄を推薦するが...