「霊山の釈迦のみまへにちぎりてし真如くちせずあひ見つるかな(行基)」「かびらゑにともにちぎりしかひありて文殊のみかほあひ見つるかな(婆羅門)」の贈答歌を解釈せよ。
「霊山の釈迦のみまへにちぎりてし真如くちせずあひ見つるかな(行基)」「かびらゑにともにちぎりしかひありて文殊のみかほあひ見つるかな(婆羅門)」の贈答歌を解釈せよ。
『拾遺和歌集』等に見られる印度僧菩提僊那(ボディセーナ、婆羅門僧正)と行基の贈答は、東大寺の大仏(毘盧遮那仏)開眼供養が執り行われた際の様を詠んだものとされる。
この開眼供養の場面は、『東大寺大仏縁起』(東大寺蔵)に見ることができる。当然ながら、褐色の肌で表現された導師こそが菩提僊那、つまり婆羅門僧正であると判る。
婆羅門僧正(七〇四~七六〇)はインド南部の生まれといわれ、諸経を研究した明晰な頭脳は、インド十六国にその名声を伝えたとされる。中国の五台山に祀られた文殊菩薩を慕って中国に渡ったところ、日本から来た遣唐使と会う。これが天平五(七三三)年のことである。僧正は大使・多治比真人広成と僧・理鏡等に要請され、林邑国(現ベトナム中部)の僧・仏徹、唐僧・道璿らと共に日本に渡った。 幾度か東渡を試みて、僧正が漸く大宰府に着いたのが天平八年五月十八日である。それから東上し、難波に着いたのが同年八月八日。時の聖武天皇は勅を発し、...