『米欧回覧実記』は実は一種の漢文であった。表面上はカタカナ漢字交じりの混淆文だが、日本語の読み書きの歴史を踏まえた時、これは一種の漢文なのである。そのことについて詳らかにする。
『米欧回覧実記』における表記と文体
一、はじめに
われわれが文章を綴り書く時、例外なく言葉・言語を用いる。いかなる内容を表そうとする時も、言語を用いねばならない。実は、発話・筆記以前の段階、思考の段階においてもわれわれは言語によって考える。言葉なしには思考は成り立たない。
ソシュール的な言い方で言えば、言語とは恣意的なものである。事物を客観的にあらわすことはできない。言語が描く世界は、実際にあるかもしれない客観的な世界とは異なることは容易に察せられる。言語が描く世界の中で考え、話し、書く以上、よくいわれるように、それらは全て言語によって規定される。ちなみに、ここでいう言語とは、言語一般ではなく、具体的な個々の言語である。われわれは、抽象的な言語ではなく具体的な個々の言語の世界に生きているのであり、思考・発話・筆記等の場面において、それらの「規制」を受けるのである。
『米欧回覧実記』を見ると、内容も大変興味深いが、その表記・文体も現代から見れば独特であり興味深い。表記・文体も『米欧回覧実記』を構成する要素であり、その内容を書き表わすにあたり「規定」として働いているのは、先述したこ...