『50年に及ぶ戦後の同和教育史を概括し、同和(人権)教育の意義と学校における同和(人権)教育実践のあり方を具体的に論述すること。』
『50年に及ぶ戦後の同和教育史を概括し、同和(人権)教育の意義と学校における同和(人権)教育実践のあり方を具体的に論述すること。』
<同和教育史の概括>
戦後の混乱も終息しはじめたころ、部落は戦前の劣悪な環境のまま行政から放置され、民衆の部落に対する差別意識も戦前と変わらない状況にあった。そのような中、1951年に、京都市内の被差別部落を題材にした小説が出回った。この「オールロマンス事件」が部落解放運動の大きな転機となっていった。
1964年に進学促進ホールが開設され、同和地区生徒が夜間に登校し、高校入学試験合格のための学習指導を受ける場が設けられた。その間に補習学級制度も発足している。1970年代に入ると、14もの学習センターが建設されて、同和地区の高校進学率はその後10年で92.8%となり、ほぼ全市と肩をならべるようになる。
80年度から幅広い学力の定着を目指した「すその学習」が取り込まれ、この後基礎学力定着対策としての中学年対策、個別指導、責任指導体制などが取り組まれていくようになる。さらに90年度には、「同和問題解決の主体者として社会の様々な分野に進出し、自らの個性と能力を発揮...