■戦後恐慌
1920 株価暴落をきっかけに戦後恐慌
大量の不良債権が発生
商社・銀行は決済不能な手形を抱え、経営危機
↓
政府による救済政策
不良経営の企業や銀行が生き延び、産業合理化が進まず
物価高による国際収支悪化
■震災恐慌
1923 関東大震災が経済に打撃 震災恐慌が発生
蔵相井上準之助(山本権兵衛内閣)
・支払猶予令(モラトリアム)
・震災手形の政府による再割引(=震災手形割引損失補償令)=
決済不能な手形を日銀が肩代わりし、その日銀の損失額を1億円まで政府が補償すること。
三重苦 高金利、高賃金、高物価
利潤圧縮の状態 高コスト構造(労働コストの上昇)
産業の国際競争力を失う。ヨーロッパの復興にともない入超
新興の重化学工業が不況に
貿易収支は赤字
■金融恐慌 1927
発端は片岡蔵相の失言。
中小銀行への取り付け騒ぎ、銀行休業
その次に最大級の貿易商社、鈴木商店の倒産
融資していた台湾銀行の休業
数多くの都市中堅銀行が破綻
高橋是清が大蔵大臣に起用される
3週間のモラトリアム(支払猶予)と日銀による非常貸出しが決定。
・金融恐慌の影響
中小銀行の休業・破綻が相次ぎ、大銀行への合同・合併が進み預金が集中し、
三井・三菱・住友・安田・第一の5台銀行の金融市場支配が確立した。
これら5大銀行は政党と深く結びつき、政界を左右する存在と化する(=財閥)。
新銀行法の下で護送船団方式の起源となる金融行政が展開し始めた。
不良債権の整理と、金融機構の健全化が一挙に進み、金利が低下して三重苦の一つが解消に向かった。
金融緩慢化により製造業の各部門で設備の改良更新等が展開し始めた。
しかし依然として回復ならず。
・農村の不振 農産物価格は二〇年代半ばから低下傾向にあり、生糸の輸出価格の低迷、金融恐慌による地方銀行の破綻による混乱がその原因となっていた。
・アジアへの輸出不振 日本の侵略に反発した中国での日貨排斥運動の展開に加えて、二九年ころからはアジアの通貨不安が日本の輸出を後退させた。アジアの通貨不安は、世界的な銀貨の下落によってアジアの国際通貨であった銀とリンクしていた各国の通貨が下落したことによっていた。
■井上財政
明確な景気の転換を見いだせなかった経済状態のもとで、二九年七月に成立した民政党内閣は、金本位制への復帰によって産業の合理化を推進するという新政策の採用を決断した。金本位制への復帰のためには、実勢より一割程度円高に誘導する必要があり、政府はそれによってデフレ圧力を市場に加え、市場での競争条件を厳しくすることで進展しない企業の整理を促し産業の国際競争力の回復を図ろうとしたのである。市場での自由な競争による調整への信頼を基盤とする古典派経済学に依拠したこの政策は、折から発生した世界恐慌によって、三一年秋には完全に破綻した。
生糸の輸出不振など世界市場の萎縮は、貿易依存度の高かった当時の日本に大きな打撃であり、国際的な価格の下落が金解禁政策によるデフレ圧力に加わって物価は短期間に三五%も下落し、企業の破綻、株価の暴落、失業の増大をもたらした。さらに悲惨を極めたのが、冷害による不作が加わった農村であり、「娘の身売り」や家族の離散などが後を絶たなかった。
■早期に回復を実現 世界的に見れば例外的に早い景気回復を実現
理由1) 恐慌下の物価の下落と失業圧力の増大が、物価高と高賃金という二〇年代の高コスト構造の要因を除去した金融恐慌と昭和恐慌という二つのショックのなかで大戦後の三重苦を日本経済はようやく脱却した。
理由2)高橋財政
1931年 政権交替によって誕生した政友会内閣の高橋蔵相による大胆な政策転換
・金解禁政策を放棄して円為替を放任する。
・一方、積極的な財政出動を日本銀行による赤字国債引受のもとで実施した。
結果)円は最大で六割ほど下落し、輸出の拡大、貿易収支の改善をもたらした。また、満州事変の勃発を背景に拡大した財政支出は、有効需要の拡大というケインズ的な政策の先取りとも評価されるものであった。通貨切り下げによる輸出拡大と財政出動にもとづき、重工業部門を中心に自律的な生産拡大によって恐慌脱出の軌道に乗った。
問題点)軍事に傾斜した需要創出は、農村部の恐慌状態を改善する力は弱く、工業の早い回復にも係わらず農業恐慌が続き、青年将校たちの軍事的なテロリズムの基盤となった。また、為替ダンピングと批判された輸出拡大はアジアの諸地域で貿易摩擦を引き起こし、国際的な対立、日本の孤立を強めた。しかも、継続する財政拡大によるインフレを懸念し、引締政策への転換を図った高橋蔵相は軍部の憤激をかって三六年の二・二六事件で暗殺された。こうして歯止めを失った財政は破綻の道を歩むことになった。
■昭和恐慌の経過と現在の対比
類似点)企業が自信を失って「不況感」が広がり、回復への転換に力強さを見いだせないなかで恐慌が発生したこと
相違点)金融恐慌によって不良債権問題がすでに処理されていたことであろう。その限りでは萎縮していたとはいえ信用機構の健全性はかなり回復し、大戦バブルのツケを抱えた企業・銀行は整理淘汰されていた。
そうした条件を欠いたままに直ちに財政面からの景気対策に着手することは、昭和恐慌期のいち早い景気回復の教訓を生かすということではなく、むしろ、それ以前の一九二〇年の恐慌、二三年の関東大震災時の経済動揺時の「積極的な」財政金融面からの施策が、不良債権を抱えた企業・銀行を実質的に救済し、問題の解決を先送りした過ちを繰り返すことになるかもしれない。かといって、市場に委ねることは民政党の金本位制への復帰という政策選択の「不幸」を繰り返すかもしれない。
つまり、当面する課題は、金融機構の不安の解消と景気の回復とを同時に実現しなければならないが、それが本来であれば淘汰されるべき企業・銀行の延命につながらないことを前提にするという難問に直面している。マクロとミクロのこの二つの課題を同時処理する処方箋を昭和恐慌は示していないのである。
仮に高橋財政の成功が良い先例になるるとしても、その限界が、農村恐慌への治癒力の欠如と財政政策の転換の失敗にあり、とくに軍部という財政拡大の圧力団体を抑えきれずに破綻したことに注意しなければならない。軍部に代わる「族議員」という圧力集団を抑えることができないとすれば、いったん既得権化した財政支出は、必要な政策転換の足かせになりかねない。