1920経済史

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    資料の原本内容

    平成不況・・いつになったら終わるのかわからないが、よく宮沢喜一(前蔵相)と高橋是清が比較されていた。
    では、高橋是清が登場する時代・・1920年代の不況とはどういうものだったのか。

    1914年〜18年
    第1次世界大戦 この時期、戦火の拡大していく欧州に対し、日本経済は軍需産業を中心とした大規模な資本投資を図った。いわゆる大戦景気である。
    1904年の日露戦争後、国際収支の急激な悪化で、危機的状況にあった経済にとってこの大戦は、大きなチャンスであったわけだ。
    いわゆる「船成金」が現れることに象徴されるように、造船業など大きく飛躍した。
    大戦中に、日本が対華21か条要求を突きつけた理由の一つに、この拡大していく経済の資本投下先として、当時併合していた朝鮮に加え、満州(ひいては本土中国)への利権拡大があった。
    そして、1919年には農業生産額を工業生産額が上回る、つまり「工業国」へと成長を遂げたのである。
    1921年
    ワシントン体制 大戦期の軍需中心の過剰な資本投下は、大戦が終われば当然の如く無駄なものとなる。
    一気に経済は冷え込み、「戦後不況」へと突入する。

    この不況に追い討ちをかけたのが、1921年のワシントン会議である。
    大戦の反省として、この前年(1920年)に成立した国際連盟と相俟って、国際的な軍縮の気運が高まり、この会議で結ばれた海軍軍縮条約では主力艦保有において対欧米6割に抑えられ、更に軍部の不満をよそに、当時の全権加藤友三郎が強行調印した。この後、続く内閣(高橋是清内閣→加藤友三郎内閣・・)もこのワシントン体制に従う、いわゆる「協調外交」へとすすんでいく。

    実はこのころから、社会主義(1910年の大逆事件以来「冬の時代」だった)の復興、そして労働運動の発生が見られる。
    森戸事件(東大教授森戸辰夫の弾圧)もあったが、日本社会主義同盟が結成など、その気運は高まった。
    そして、友愛会を前身とする日本労働総同盟が結成され、労使協調から階級闘争主義へと移行していく。
    これらの運動と相俟って、普通選挙を求める運動(一般的には大正デモクラシーと定義するが)も高まっていった。
    1923年
    関東大震災 1920年からの戦後不況を脱することのできない原因として、国内の産業基盤の脆弱さが上げられる。結局、貿易競争力のない日本経済にとって、立ち直る契機はつかみにくかったのである。
    そこに壊滅的ダメージを与えたのが、1923年9月1日・・関東大震災の発生であった。戒厳令が出され、流言蜚語が飛び交う中で、多くの朝鮮人が虐殺され(朝鮮人狩り)、無政府主義者の弾圧まで行われた(甘粕事件、大杉栄の暗殺など)。
    ただでさえ、基盤の脆弱な企業にとって、震災での損失を購うどころか、銀行からの借り入れ(=手形)の決済も不可能となった。そこで政府(山本権兵衛内閣)は、経済の混乱を抑えるために震災での損失(=震災手形)その支払いを猶予させたり、その手形の決済不能なものについては、日銀が肩代わりし、その日銀の損失額を1億円まで政府が補償すること(=震災手形割引損失補償令)などをした。

    しかし、脆弱な国内基盤では、その再生は不可能であった。震災手形の回収は進まず、その焦げついた債務が、この後の経済の混乱をもたらす。
    これってまさに、現代の銀行の「不良債権」と同じ構図。

    1927年
    金融恐慌 震災手形の処理が一向に進まない中で、当時の中堅銀行であった東京渡辺銀行への緊急融資問題を、思わず当時の蔵相片岡直温が「東京渡辺銀行は潰れた」と発言してしまう(実際には当時としては健全な方であった、まして潰れてもない)。
    これをきっかけに、預金者がいっせいに押し寄せ、預金の引き出しを求めた。さらにこの騒動は他銀行へも波及した。これが取付け騒ぎである。この取付け騒ぎにより、銀行の現金は一気に流出、金融恐慌へと陥った。

    当時の内閣、若槻礼次郎(憲政会)は外交政策などで枢密院と対立しており、台湾銀行救済の緊急勅令を枢密院に拒否されたこともあって退陣に追い込まれた。そして、田中義一(政友会)が政権をとったとき、この恐慌の処理が急務だった。
    支払猶予令(モラトリアム)を出し、その間に紙幣を濫発、銀行に供給することで流出した資本を補い、金融恐慌を鎮めた。

    しかし、この金融恐慌の過程で、企業集中やカルテル、そしていわゆる5大銀行(三井・三菱・安田・住友・第一)へと預金は集中していく。
    これら5大銀行は政党と深く結びつき、政界を左右する存在と化する(=財閥)。

    1930年
    昭和恐慌 田中義一内閣が張作霖爆殺事件で昭和天皇に反感を買い、退陣する。政権与党となった民政党は浜口雄幸を首相につけ、蔵相として井上準之助を擁立した。井上は、続く不況を打破するには、日本を国際経済と直接リンクさせ、国際競争力をつけることで産業の活性化を図ると共に、産業合理化を進めることで、弱い企業を淘汰していくという方針(非常に典型的なデフレ政策)を立てた。
    国際経済とのリンクを図る・・それは、金本位制への復帰を意図するものだった。
    *金本位制=国内の貨幣量を「金(きん)」で換算し、国際取引にも金を用いる。だから、以下のようなサイクルが成り立つ・・はずだった。
    緊縮財政→不景気・物価下落→国際競争力の回復→輸入減少・輸出増大→金の日本流入→国内通貨の増大→
    好景気→物価の上昇→競争力の減退→輸出減少・輸入増大→金の流出→通貨の減少(緊縮政策)

    問題は、金本位制への復帰の水準だった。国際的信用を考えて旧平価(100円=49.85ドル)で金本位制への復帰(=金解禁)を行ったのだが、当時の経済は国際的競争力が弱かった。つまり、日本の物価が割高だったのだ。このままでは、金の流出が懸念される。そこで井上準之助は産業合理化を柱とするデフレ政策(緊縮財政)を敷く。しかし、ここに不運は重なった。

    1929年10月、ニューヨーク市場の大暴落を契機に、世界恐慌が発生していた。
    この情勢下で金解禁を断行してしまったことが、いわゆる「嵐の中で窓を開け放つ」結果となったのである。
    世界経済とリンクしてしまった結果、世界恐慌は日本に波及、更にデフレ政策とも相俟って失業者は増大していった。特に農村では、それまでの農産物価格の下落に加え、生糸産業の輸出不振によって繭の価格が暴落していく。欠食児童や女子の身売りが見られるようになった(=昭和恐慌)。浜口内閣は金解禁とその諸デフレ政策を強行に貫いたため、外交上の問題(ロンドン海軍軍縮条約に伴う統帥権干犯問題)とも相俟って、浜口雄幸は狙撃され、退陣に追い込まれる。その後の若槻礼次郎も閣内不一致により退陣、井上財政は挫折した。

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