北条家と執権政治についてです。
鎌倉幕府と執権政治について
源頼朝が、関東を平定し、平氏を滅亡させたことにより、武士として政治の実権を握ることとなる。全国に守護と地頭を置き、朝廷の支配と相容れる形で鎌倉に幕府を開いた。それ以降、政治の中心が京都に戻るまでの約150年間を鎌倉時代とする。
鎌倉時代の初期、すなわち源頼朝が政権を握っていた時期は、主に関東を中心とする東日本の支配であった。西国は朝廷の管轄であり、地頭の設置も東国と旧平氏領に限られた。それでも鎌倉を中心とする関東の武士団を統率するために侍所、行政を担当する公文所(政所)、司法を担当する問注所を設置し自らは征夷大将軍となり鎌倉幕府の礎を築いた。
正治元年(1199)に頼朝が逝去したのちは、後継者をめぐって幕府内での権力者争いがはげしくなる。二代目の将軍となったのは頼朝の嫡男である頼家だったが、齢十八ということを考慮し、幕府は「十三人の合議制」と呼ばれる有力御家人たちの話し合いによって政治を進めることとした。この有力御家人の中心となったのが、頼朝の妻である北条政子の父、北条時政であった。時政は、他の有力御家人を滅ぼし、二代目将軍頼家を暗殺し、その弟である実...