レポートその1「法源の意義とその種類について論ぜよ」

閲覧数3,071
ダウンロード数17
履歴確認

    • ページ数 : 9ページ
    • 全体公開

    資料紹介

    私の初レポートです。よかったら見てやって下さい。

    資料の原本内容

     法源とは、裁判官が判決を下すときの基準となるものである。では、なぜ法源が必要なのかを考察してみたい。例えば、いくら裁判所を置いても、明確で公平な裁判が行われなければ裁判の意味はない。となると裁判所の機能に対する信頼も生まれない。その結果、極論ではあるが自力救済や私的制裁に回帰する人も現れる可能性がある。そこで、どのような基準で裁判が行われたかを明確にする必要がある。裁判官が任意で判断を行うのであれば、公正な裁判とは言えないだろう。そうした「人による裁判」を回避し、「法による裁判」を行うためにも法に基づく裁判が重要になる。では、法とは何かを考えてみたい。法とは、社会通念上の正しさを具体化したものと思われる。この法こそが法源であり、法源により始めて裁判の公正が担保される。故に法源は必要であり、この必要性こそが法源の意義だと結論したい
     では、法源にはどのような種類があるかを見ていきたい。法源は国によって様々である。なぜ様々なのかを考察したい。大きく分けて、ローマ法から派生した大陸法と、そうではないイギリス、アメリカ等で独自に発展させた英米法の2種類が根幹となっている。この2つを比較しながら考察を進めていきたい。
     大陸法は成文法の形を採っている。成分法とは、憲法、法律、命令、条令等の所定の手続きにより文章家、制定化された法令を指す。
    これに対し不文法は、社会構成員の意識の上に成立し、文章化されてないものを指す。成文法の国家制定法には憲法、法律、政令等があり、これが成文法における法源となる。法自体に上下関係があり、憲法が全ての法に上位する。(憲98-1)同等の効力がある法の間で矛盾が発生したときは、新しい法を優先する等の特徴がある。不文法は文章が存しないため、国家や自治体が成立していない地域でも存在し、大きな役割を果たしている。
     だが、成文法国家にも不文法は存在しており、法源として考えたとき、むしろ両者は並立していると考えられる。では、不文法における法源には何があるだろうか。まず、慣習法を挙げたい。慣習法とは文字通り慣習を基礎とした法規範である。社会構成員の意識の上に成立している。ただし、公序良俗に反しないことが条件となる。法は正義の実現と社会の安定のためにあるのであって、これに反する法は成立しない。次に判例法を挙げることができる。これは個々の判例の積み重ねによりできた法である。英米法を採っている国々では、先例拘束制の原則により、判例に拘束力がある。これが判例法主義である。大陸法系の国々では、判例法を法源と認めるか否かは、いまだ議論の途中である。
     日本にでは、憲法76-3「すべての裁判官は、その良心に従い独立して職権を行い、この憲法及び法律に拘束される」として、判例法を否定しているが、最高裁の判決変更は大法廷で行わなければならず、下級裁では最高裁で破棄される判決を避ける傾向がある。これは、成文法を採っている日本でも判例法を事実上の重要な法源としていると言える。
     ただし、法源であるが故に憲法41条に抵触するのではとの批判もある。判例を法源として認めると三権分立に抵触する。というものである。しかし成文法国家においても判例法は事実上の法源性を有している。法源としての判例法と立法との関係は、今後議論すべき課題となるだろう。
     最後に、条理を挙げたい。条理とは物事の道理、筋道、合理性等の社会的良識、通念である。裁判官が法源となるべき成文法、慣習法、判例法も見いだせないときであっても、裁判不能は絶対避けるべきである。このとき条理が必要であると考えられる。ただし、条理自体は補足的なもので、基準にはなりえても法にはならない。
     以上、法源の種類を考察してきたが、日本における法源は第一に成文法。第二に慣習法と判例法。それでも基準を見いだせないときは条理となっている。成文法の明確さと公正さにより裁判の公正を担保し、不文法の社会変化への柔軟性により裁判不能を回避する。
    この二つの法源により、裁判システムの信頼を確保している。        
                  以上
        
    1

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。