英米事情Ⅰ 分冊1(課題1のみ) 合格レポート

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    資料紹介

    【課題】「教材P18の17行目から、P19の11行目までの英文を正確に和訳しなさい。また、代名詞は元の意味に戻して訳しなさい」。
    課題1の和訳のみです。課題2は別にアップしております。

    資料の原本内容

    1. もう一つの摩擦の源が、ヨーロッパからの移住者とアメリカ原住民との接触から生じた。アメリカ原住民は、新世界にアジアの一部を発見したのだと考えた探検家たちにより、「インディアン」と間違った命名がなされた。このヨーロッパからの入植者とアメリカ原住民との両者の最初の出会いは、一般的に平和的なものであり、友好あるいは敵意のどちらか一方というよりは、互いに対しての好奇心によることに特徴づけられていた。こうした難しい関係のあらゆる側面が、キャプテン・ジョン・スミスとインディアンの族長の娘ポカホンタスとの有名な出会いに反映されている。

     アメリカ原住民との最初の出会いの説明は、さらなる移民を促す目的でヨーロッパに送られた宣伝用の印刷物の一部として頻繁に活字となって書かれた。こうして、ピルグリムの最初の感謝祭の伝説に見られるように、原住民たちは、未知の土地を案内してくれる友好的なガイドとして描かれ、彼らは、とうもろこしの食べ方、野生の七面鳥の捕まえ方や調理の仕方、煙草の吸い方などを教えた。これら全てがヨーロッパには知られていない植物相や動物相を含んでいたのである。その一方で、ジョージ・オールソップのような著述家は、アメリカ・インディアンをエキゾチックで残忍なものとして描くのを好んだ。それは、植民地の住人になろうとする人の勇気を試すものでもあった。

     このヨーロッパの入植者とアメリカ原住民との最初の出会いの本当の姿は、特別な利害により曲解されている過去からは決して見えてこないかもしれない。しかしながら、現代のアメリカ人でさえも、17世紀の北アメリカには多くの国民、あるいは「部族」が住んでおり、驚くほど非常に多様であったことがしばしば理解できないでいる。東部の部族の間でさえ、言語や統治形態、所有の観念といった点において非常に幅があり多様であった。中部と南部の地域では、原住民の部族は、農業を行って定住する傾向が強く、襲撃や侵略といったことは頻繁であった。ニューイングランド周辺のインディアンの部族は、統制が非常によくとれており攻撃的であった。アメリカ・インディアンについて、すべての部族にあてはまることなどほとんど何もないと言えるのである。
    参考文献)

    「American Society(アメリカ社会文化史)」(通信教育部教材)、ロバート.H.ウォーカー著、斎藤真、山本博編、南雲堂、2007年4月3日
    20 × 20

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