イタリアにおける女性労働

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    資料の原本内容

    「マイノリティから見るイタリア史」レポート
     僕は本講義を受けて、イタリア女性運動のパイオニアであるアンナ・マリア・マッツォーニが女性労働者の保護立法に全面的に反対したことに非常に感銘を受けた。なぜならば、それまでの児童と同様、女性は社会的弱者であり、彼女らを保護するのは当然のようであるが、まさにその考え方が女性の社会的地位向上を妨げるのであることに気がついたからだ。僕はアンナ・マリア・マッツォーニから始まったイタリア女性運動が現在に至るまでどのような変遷をしたのかに興味を持ち、それについて、また現在のイタリア女性について考察する。
     第二次世界大戦後に制定された共和国憲法は、すべての市民の方の下の平等と性による差別の禁止を掲げるとともに(第三条)、「女性勤労者は男性勤労者と同じ権利を有し、等しい勤労に就き、同じ報酬を受ける」(第三十七条)ことを定めた。つまり法の下の男女平等という一般原則に」加え、労働者としての男女の対等性が別個に規定されたのである。

    しかし同時に、女性の勤労条件は、「女性の本質的家庭機能の遂行」と両立するものでなくてはならず、労働においては、「母親と幼児に特別の適当な保護を保証しなければならない(第三十七条)とある。これはアンナ・マリア・マッツォーニの女性労働者に対する考え方に逆行するものであると考えられる。僕はこの原因として、ムッソリーニ下のファシズム体制の中で女性労働に関する意識が変わり、第二次世界大戦という、おおきな戦争に負けていくなかでこのアンナ・マリア・マッツォーニの考え方は消えていったのではないかと推測する。ここで労働者における男女平等の理念はアンナ・マリア・マッツォーニの考え方に沿っていると考えられるが、これはアンナではなく、むしろ、世界情勢、いうならば他の国の影響を受けたものだろう。しかし実際は憲法制定後男女の雇用機会に関するさらに細かい法律が制定されているが、罰則や救済の規定を具体的に示していなかったためにあまり成果をあげることはできなかったようだ。

     さて、20世紀終わりごろには女性の労働者が増えている。ひとつの原因は1990年代に入り、パートタイムの労働が増加し女性の労働に影響を与えたことだと考えられる。(イタリアのパートタイム労働は、通常の労働時間よりも短いもの、または所定期間内のものと定義されていて、法によりさまざまな制限があり、労働者全体におけるパートタイム労働者の割合は少ないものの、パートタイム労働者における女性の割合は半分をはるかに超えるものとなっているようだ。)パートタイム労働の増加によって女性の労働率は増えるものの、管理職や、重役等のポストに就く割合が少なくなる原因になってしまう。

     また地域による女性労働の状況が違うのもイタリアの特徴であるといえる。1990年の数値であるが、北部・中部における女性の就業率は38%であるのに対し、南部では24%にすぎない。一方、女性の失業率は、北部・中部の5%にたいして南部では倍以上の11%にものぼる。南部では、男性の失業率さえも女性を上回るほど高いが、南部女性の雇用状況は、いっそう不安定なのである。しかし、南部女性の低就業率の原因は、失業だけではない。1990年の時点で、14~70歳における女性の専業主婦に割合は。北部・中部が32%であるのに対し、南部では45%と高い。しかもこれらを1980年の数値と比べると、北部・中部では、就業率が4ポイント増え、専業主婦率が9ポイント減少しているのに対し、南部の女性就業率は変わらす、専業主婦率の減少も2ポイントにとどまっている。(一方就学人口は多少増加している)。このように、20世紀末に進んだ女性の労働進出はパートタイム労働と北部の高学歴女性によるものだと考えられる。
    今日、スウェーデンに見られるように、女性の労働進出は顕著になってきていて、逆セクハラ等一昔では考えられなかったような問題も起こりつつある。イタリア女性もこうした流れの中でまだまだ変遷していくだろうが、彼女ら社会進出の先駆者であるアンナ・マリア・マッツォーニは、彼女たちの記憶に残り続けてほしいものである。
    参考文献・URL

    馬場康雄・奥島孝康編『イタリアの社会』早稲田大学出版部

    http://www.jil.go.jp/kaigaitopic/2003_07/italyP01.html

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