市民社会と市民の在り方

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    資料の原本内容

    市民社会と市民の在り方
    市民社会と市民の在り方について論じるには、まず市民社会とは何であるか、定義する必要がある。端を発するは17~18世紀頃に起こった社会契約に関する思想であるが、それが現在はどのように変化しているのか、また変化しているとすれば、どのように定義するべきなのだろうか。

    社会契約に基づく思想的な定義と、現存する価値観に基づく実際的な定義とを比較し、以下に論じる。
    社会契約

    一般的に市民社会とは、市民によって構成された社会、もしくは市民が根幹を担う社会を指すものであるが、もともとは絶対王政の打倒や封建制度の廃止を目的とした、17~18世紀頃のイギリスやフランスを中心に起こった市民革命の結果としての社会である。そのため、市民社会の背景には必然的に社会契約が絡んでくる。そして社会契約は、人権保障や民主政治の礎となることで市民社会に貢献し、市民社会に「平等」という前提をもたらしたのである。

    しかし、そもそも平等というものは曖昧なものであり、各々の定義によって様々な範囲や意味をもつものである。例えば平等の議論をする上で最も有名なものを挙げれば、「結果の平等」と「スタートラインの平等」がある。同じ平等でも、その考え方一つで社会主義にも資本主義にもなり得るのだ。

    マルクスは、『ゴータ綱領批判』という文書で、平等について、経済的な分配問題や格差社会を例に挙げ、平等とは特定の視点や側面を定めたものであって、それと異なる人間はまた別の差異があるため、平等は別の側面から見れば不平等になってしまう、と主張している。市民社会の代表的な見解の一つに、資本家階級と労働者階級の利害対立に注目したヘーゲル、マルクスの考えがあるが、要するに上記の平等による見解をふまえ、市民社会は私的所有の廃止によって止揚し社会主義国家が誕生するという、いわば「結果の平等」によるひとつの形であるといえる。

    また、ロールズは『正義論』による論証の中で、公正な社会契約を結ぶためには、「無知のベール」を被り、自分自身についての情報を一切持たない状態で選択を行って同意する原則でなくてはならないとしている。つまり、あらゆる立場になりうる可能性をもたせることで、偏見や損得勘定を排除し平等となるという、いわば「スタートラインの平等」によるひとつの形であるといえる。

    これらのことから、それぞれ思想に基づく平等の概念によって、到達すべき市民社会像は異なる。しかし、いずれにせよ市民社会が社会契約を前提にしている以上、政治の基本単位を「個人」としている事実は変わらない。社会契約は「人間個人の幸福」を軸にしているため、市民社会の成立にどんな背景があろうとも、自由で平等な市民によって構成される社会が市民社会なのである。
    資本主義

    日本や欧米などの先進国では、市民社会が根付いていると言われている。ところが現在では市民社会の定義が細分化し、意味も曖昧になってきているように思われる。なぜなら、平等の定義がそれぞれの思想によって様々である以上、そこから導き出される市民社会像は、それぞれの思想からなる国家ごとに存在するといえるからである。つまり、日本には日本の、アメリカにはアメリカの、中国には中国の市民社会像があるはずなのだ。

    例えばアメリカに医療保険がないことは有名である。正確には公的な医療保険がなく、民間の医療保険であれば存在するのだが、これは自由の国であるアメリカの国民性を示す重要な要素であると考える。アメリカは、平等の概念として、「スタートラインの平等」を突きつめた形で実践した市民社会といえるのではないだろうか。

    公的医療保険とは、病気やケガなどで入院治療や通院治療、または手術を受けた場合に、そのときかかった医療費の一部を国に負担してもらうというものである。公的医療保険の費用が税金によって賄われ、さらに累進課税が課される以上、言いかえれば医療費を払えない人のために、国民が(特に富裕層が)費用を負担しているということである。これはつまり所得の再分配であり「社会主義的な行為」ともいえる。「アメリカ国民は保証よりも個人の自由を大切にする(クリントン大統領の発言より)」と考えるアメリカ人も多い以上、イデオロギーの問題で、納税と権利がイコールであるという考えもあって、税金の使い道には強い関心があり、納得できない政策には強い不満を持つのである。

    つまり、アメリカの自由主義における平等とは、国家が干渉しないということであり、何もしないことで国民に平等を与えている。これはいわば「最も小さな政府」の体現で、よりよい待遇を望むのであれば、金銭で購入すればいいというスタンスであるといえる。

    また、1980~1990年代のフランスでは、企業の国有化や社会保障費用の拡大といった、あたかも社会主義のような政策を取っていた。左派のミッテラン大統領政権とはいえ、特に起業に関する管理が厳しく、法人税などの請求額が高額であったために、起業して三年程度で倒産してしまうケースも多かった。しかし、サルコジ保守政権に移ってからは規制緩和を行い、政府の管理を減らしている。

    このことから、同じ平等の概念を持っていても、手厚い保障を重視するか、自由を重視するかといった価値観は、経済状況やグローバル化の影響などで変化していると考えられる。
    平等の定義が曖昧であるとはいえ、市民社会の根底にあるのは、最終的に市民が中心であることと、自由と平等への言及のみである。市民社会が成り立っていると仮定する以上、そこには構成員である市民の掲げる平等がなくてはならない。

    社会契約に基づく思想的な定義においては、封建制度や王権制度からの脱却という意味が強かったため、市民社会とは特に「市民のための社会」であることに比重があるように思われる。しかし現代では、それぞれのイデオロギーに基づく価値観に加え、グローバル化によって新しい価値観が浸透し、市民社会の定義は個人ごとの価値観によって定義されているように思われる。確かに、アメリカの自由主義的なイデオロギーによって、所得の再分配などの政策は実行しにくくなってはいるものの、アメリカには、キリスト教の教えに則り弱者救済を掲げる民間の人道支援団体が、他国に類を見ないほど存在している。つまり、一見自由主義、功利主義の傾向が強いように思われるアメリカの市民社会でも、制度はイデオロギーを優先するかわりに、宗教が所得の再分配の機能を果たしており、イデオロギーと社会保障のバランスを保っているのである。

    また、社会企業家の台頭も市民社会における新しい市民の在り方として、実際的な市民社会を補っている。例えばアメリカのDCセントラルキッチンという起業は、ホームレスに調理技術の職業訓練を行っている会社であり、社会保障の薄いアメリカでは、このような起業のおかげで格差社会の解決が図られている。フランスやドイツなどの欧州にも、クラヤミ食堂というレストランがあり、暗闇の中でも動ける盲目の障害者をウェイトレスやウェイターとして雇うことで障害者の自立を促し、また暗闇の中で健常者と障害者の立場が入れ替わることで、健常者の障害者への関心を高めるきっかけにもなっているという。

    以上のことから、基本的に市民社会は近代社会として資本主義社会とともに特徴づけるとされているが、現在ではより柔軟に定義され多様化しているといえる。そして市民は、それぞれのイデオロギーや経済状況に基づく市民社会を形成しつつも、社会における問題点を宗教や事業などで補おうとしているのではないだろうか。
    参考文献

    「法の哲学」ヘーゲル

    「共産党宣言」マルクス、エンゲルス

    「市民とは誰か」佐伯 啓思

    「市民社会とは何か」植村 邦彦

    「NPO入門」内山 直人

    「社会企業家」斎藤 槙

    「これからの「正義」の話をしよう」マイケル・サンデル

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