法社会学

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    資料紹介

    資料の原本内容

    「日常世界と権利」を読んで得られた見解
    法律に定義されているような権利が現実社会においても同様に認識されていることはあまりないと考えられる。というのも、私や多くの人々が日常生活において、そんなことを考え意識することはないからだ。しかし、考えてみればそれは当然で私たちの日常生活というごく普通の営みがごく普通に行われるために規定という名の権利が生まれた。「日常世界と権利」の中に『「国家が認めたら権利」になるという考え方ではなくて、その前に社会現象の次元で権利が生成してくる。』とあるように、権利はもともと普通の生活の営みを妨害するものに対する反抗から生まれたものである。「日常世界と権利」の本文の例、日照権にあるように本来太陽の光とは当然のものであって、誰しもが享受できるものであった。しかし、技術の進歩で高層ビルが可能となった今、平屋建てが当然とされていた時代のように平等に日光を得られることは難しい。当然そうなれば、一般の人々はこの状況に対して不満を持ち以前のような当然の生活状況を求めるようになる。これが、権利を生み出す種になる。法律の世界から人々の当然の生活に支障があるからそれを守るために権利を誕生させようという活動が誕生することはない。この一連のプロセスを考えれば当然に権利というものは一般社会から生まれたものであると考えられる。一般市民の活動がプロセスの前半で誕生に関連するのに対し、裁判所や国家の活動は後半でその活動を受け継ぎ今後の社会で守らせることにある。このように考えると私たちが生活している世界は私たちのものであるが、法の世界はまるで別次元に存在し機能しているように感じる。しかし、上記のとおり法世界は日常世界から生まれている。法世界はシステムのように存在し私たちの生活を支配しているようにも感じるだろうが、本来はその逆であり生活の求めにより法世界の誕生があるのだと考えなければならない。
     一般に日本の社会は権利意識が薄いと考えられる。アメリカのように権利を侵害されたと思えばすぐに訴訟を起こしたり、法律を身近に頼ることがあまりないからかもしれない。しかし、考えて見ればそれは容易なことで、もともと日本と欧米は相違がある。そこに無理に欧米の権利に対する考えを当てはめるのは、ないものに枠をはめるのと同じようなものである。だから、傍から見れば権利意識が薄いと断定されてしまうのだろう。その社会にはその社会の秩序が存在し、その社会の発展の過程と成長でもって、いわいる欧米の権利に当てはまる概念が存在し機能しているのだろう。しかし、思うに現代の日本の法社会は欧米の多大な影響下のもとに成立している。当然のように現代日本の権利概念も欧米の移植と考えても差し支えないだろう。例え日本の社会の欧米の権利に相当する概念が存在し機能していたとしても、欧米風の法律を真似た日本社会においてそのような古い概念を持ち出し、適用するのには無理がある。そうであれば、やはり日本の権利意識は低いと判断されても仕方がないのかもしれない。しかし、私はこれに訂正を加えたい。日本社会は権利というものに対して、低いというよりも希薄といったほうがふさわしいように思う。そもそも、欧米社会は一般市民が抑圧されてきた歴史が長かった。中世の没個人的な社会体制や教会の存在、魔女狩り、その後の絶対王政の下での生活。フランス革命は虐げられてきたことへの反発と考えても差し支えないだろう。つまり、欧米では生きるためのごく普通の生活の営みさえ危険に晒される期間が長かった。一方で、日本は江戸時代という世界的に見ても希有とも言える平和な時代が存在した。飢饉や不況が存在してはいたが、一般庶民の生活に浮世絵や、歌舞伎が娯楽として存在していたことから考えて、日本は欧米に比べて質の良い生活があったことが伺える。人々は危険に晒されることもなく、至極当然な生活を営むことが可能であった。この二つの歴史が、日本人と欧米人の権利に対する欲求を大きく変えた。日照権にあるように権利は不満が、社会活動を起こし人々の意識に変化をもたらす。不満が小さかった日本人が、欧米人のように権利は戦わなければ獲得できない、保障されないという考えを持つのは難しかったと考えるのが自然だろう。これは、現代の日本とアメリカを例に出しても言えることである。日本は格差が北欧と似て小さい。そのため社会問題が先進諸国の中でも低く不満が少ない。一方アメリカは格差がひどく犯罪率など社会問題も多い。彼らにとって訴訟することは権利の闘争というよりも裁判で勝てば一儲けできる一種のギャンブルと化している面がある。このような条件の下に見れば、欧米の権利意識が高いと断定するには矛盾が残る。事実日本も欧米列強が幅を利かせていた近代において、権利に対して高い意識を持っていたと思える事例がある。というのも、白人至上主義といわれたこの時代、それ以外の人種は苛酷な扱いを受けていた。当たり前のように日本人はこの不平等な状況改善のために、当然の権利を主張したのだ。それが日本が国際会議で出した「人種的差別提案」である。しかし、列強の強い反対にあい否決された。だがこれは世界初の試みでもあり、革新的なものあった。以上のような歴史を見れば日本のみが権利意識が低いとは断定できない。
     そもそも権利は日常生活の積み重ねと必要に応じて、人々の認識の中に定着し絶対視されることで誕生したものである。繰り返された習慣はやがてルールとなって、人々の中で常識化する。例え本人に、規則に対する知識が存在いなくても、もはや多くの人々の中で当たり前と化した規則は当たり前のように新参者の中で受け入れられる。知識がなく無知であってもなんら支障はないのだ。極端に言えば、赤信号で渡らない人は、車の危険性や社会のルールを知っているから守るのかもしれないが、まだほんの小さな子供にとっては言われたから守るのであり、根底的な理解はない。それでも、第三者の視点から見ればどちらもルールを守っているのである。例え、大人がある程度の理解があっても根底的な理解はなかったとしても、規則さえ守れば普通の生活が保障されることを人々は知る。権利はこの当然の規則の具現化であり、法はこの規則という名の番人である。しかし、この法が人々の生活に必要な保護をすべて与えてくれるわけではない。いわいる、私たち学生が大学で教えられる法は保護の一部でしかない。人の生活は、人の数だけ多様性があり、危険に晒されている可能性がある。そして、他者との衝突がある。それを法がすべてカバーするのには限界が存在する。また、矛盾も生じてしまう。法律は表面的なものでしかない。実質的な法というものは、たとえば、人々がエレベータに乗るとき右によってしまうような光景、つまり誰かに命令され強制されるようなものではなく無意識のうちに生じる習慣が本来の秩序なのである。この習慣は人々に法のような知識がなくとも、人々の生活の中でゆっくり時間をかけて堆積されていく。やがては、生活そのものになりいわいる、伝統やしきたりと呼ばれ集団の中の規律として成立していく。潜在意識の中に存在する習慣という名の行動規律が意識されるのはほんの一部でしかなく、全体を意識するのはきわめて困難なことかもしれない。しかし、それは社会がまだ相対的に自身の存在を認識していないからではないかと思う。たとえば、日本という国しか世界に存在しなかったならば、私たちは永遠に自分たちの行動規律を一部しか意識することはなかった。しかし、西洋というまったく違う環境の存在を知ったとき、私たちは自己を認識し自分たちを見つめる。違った環境が相対的になることで、自己の潜在的なアイデンティティ、つまり知らぬ間に堆積した習慣による行動規律を意識するのではないだろうか。たとえば、白人と出会うまで、一部のアメリカ・インディアンやパプア・ニューギニアの原住民の人たちは所有するという意識がなかった。すべてのものは、みなのものであった。自然の恵みが彼らの生活の源であり、それを所有することは不可能に等しく、その環境に対する考えの根底が彼らの財産に対する意識を蓄積させた。自分のものであっても他人が要求すれば送るのが当然の習慣で、欧米の言う所有権はないに等しい。つまり、そのような権利などない状態が彼らの習慣からすれば意識することのない当然の規律であった。しかし、ローマの時代から都市国家が発達し、商業が盛んなヨーロッパでは所有権という概念が存在しないのはありえないことである。生きるに十分な糧は、彼らの周りの環境からは沸いて出てこない。彼らの生活の中では金銭による取引や、財産を持つことが生命線であった。根底的な積み重ねの違いがある二つの社会では、このように考えればいやおうなしに潜在意識のそこにある規則を認識させられるのではないだろうか。
     われわれの生活は日々進化と発展によって変化を遂げている。その中では当然習慣もそれに順応して変化を遂げるのは至極当然のことであろう。書きかえることが難しい法律文よりも、人々の生活の中に生まれ秩序として柔軟に変化を遂げることこそ、なによりもの潤滑油になる。私たちの考える権利などは私たちの中から誕生し、それを根拠に存続し形を成している。これに反した場合存続の形を保つのは無理な話である。そして、法は平和な秩序の中に存在する。平和なときこそ法はルールとして人々に守られ認識された存在になる。つまり、裁判で争うような紛争の中に法は存在しないのである。そこには、法というルールを飛び越えた結果しか残っていない。人々が一定のルールを決めて自主的に守ることで法は、社会の中に消えずに残り続けるのである。...

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