日本史②B 課題1

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    資料紹介

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    課題
    「建武政権の成立から室町幕府三代将軍足利義満の時代までについて、以下の五つの言葉を全て入れて、二四〇〇字程度で述べよ。
    建武政権・観応の擾乱・守護大名・南北朝の合一・日本国王」
    (インターネット上の東洋大学シラバスより引用)

    参考文献
    家長三郎『新講日本史』三省堂、1967年
    新田一郎『中世に国家はあったか』山川出版社、2004年
    山本幸司『頼朝の天下草創』講談社学術文庫、2009年

    資料の原本内容 ( この資料を購入すると、テキストデータがみえます。 )

     元寇以来の政局不安により、鎌倉幕府は武士層からの信頼を失い主従関係は崩壊していた。一方で、朝廷においては大覚寺統と持明院統が対立し、両統迭立が行われ、1318年に大覚寺統の後醍醐天皇が即位する。後醍醐は自身への集権化、皇統の統一を図るために、両派の排除と倒幕計画を企てていた。討幕計画は、1324年の正中の変、1331年の元弘の乱と発覚し、元弘の乱で後醍醐天皇は隠岐島に流されると、幕府の支持を受け持明院統の光厳天皇が即位した。後醍醐天皇の討幕計画に呼応した楠木正成や護良親王らに加え、幕府側の御家人、新田義貞や足利高氏らが朝廷側へ寝返った。
     1333年に後醍醐が隠岐を脱出し、伯耆国において挙兵すると足利高氏は、京都の六波羅探題を滅ぼし、新田義貞は、鎌倉を攻め、北条高時ら北条氏一族を滅ぼして倒幕を達成した。後醍醐天皇は、光厳天皇の皇位を否定し、新政を開始した。六波羅攻撃を主導した足利高氏は、上洛した武士を指揮し、京都支配を先導した。高氏は鎮守府将軍に任命されると、名を「尊氏」と改めることとなる。
     1334年には、年号が「建武」と定められ、大内裏の造営のための「二十分の一税」などが計画さ...

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