異文化理解 1単位目

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    異文化理解1

    ブリテン島がローマ帝国支配下に入ってから、ノルマン人に征服されるまでのイギリス史を教科書の該当する節ごとにまとめる形で概観せよ。

    ・ローマ人によるブリテン島の侵略はBC55に始まった。その地にいた民族は最初ローマ人の攻撃に対抗していたが、結局は降参した。ローマ人はAD47にブリテン島に戻り、北部地域の支配を広げた。ローマ人は彼ら自身の行政システムを作り上げたが、日々の支配はその地の王族に任せていた。イケニ族の女王ブーディカによる反乱などがあったが、50年後には残りのイングランドとウェールズにも支配を広げた。ローマ人は410年にヨーロッパ本土での異教徒からの侵略を防ぐために、ブリテン島から軍隊を撤退させた。

    ・5世紀になると、ブリテン島は北ヨーロッパから来たアングル人、サクソン人、ジュート人に侵略された。アングロサクソンとよばれた彼らは、600年までにイングランドのほとんどを占領した。7世紀までにイングランドは主権を争う7王国で構成されるようになる。7世紀にはノーサンブリアが強国となるが、オファ王の下マーシアが優勢となった。オファ王は初めてイギリスの王と名乗った王だった。9世紀になるとアルフレッド王の下、ウェセックスが優勢となった。アルフレッド王は8世紀末からイギリス各地を侵略していたデーン人のバイキングをエディントンの戦いで打ち負かし、彼らにイングランド東部のデーンローに住むことを許した。926年にアルフレッド王の孫のアセルスタンはデーンローを奪い取り、1013年までアングロサクソン族によって国は支配されていたが、繰り返されるバイキングの侵略により、エセルレッド無策王はノルマンディーに逃れ、王位はデンマークのスウェイン王が手にした。その後、スウェイン王の息子カヌートが王となったが、1042年にデンマーク王家は途絶え、エセルレッド王の子エドワードが王となった。

    ・1066年に証聖王として知られたエドワード王が死んだのち、ウェセックスのハロルドが王座に就いた。その後ノルウェーの王ハロルドハルドラーダがその王位を狙い、イングランド北部を侵攻したが、スタンフォードブリッジの戦いで敗れた。その3日後、ノルマンディー王ウィリアムが優れた騎兵隊とともにイングランド南部を侵略しヘースティングスの戦いでサクソン人を破り、結局はウィリアムが王座を手にした。
    英国国教会の成立から、共和制成立までのイギリス史を教科書の該当する節ごとにまとめる形で概観せよ。

     1534年にヘンリー8世を英国国教会の至上首長とする国王至上法が議会を通った。これにはヘンリー8世の跡継ぎ問題が関係している。ヘンリー8世はキャサリン妃と離婚をして侍女のアンとの結婚を望んだが、ローマ法王の許しを得ることができなかった。にもかかわらず、アンと結婚したためヘンリー8世は1535年ローマ教皇により破門された。こうして、ローマ教会の支配からはなれたイギリスの宗教改革が始まった。大法官でもあったトマス・モアや他にもこのヘンリー8世の言動に賛同できなかった

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