連関資料 :: 政治
資料:487件
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【早稲田大学】摂関政治から見る中世日本
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藤原ただひらの時代、天皇の幼少時には摂政、元服後には関白になり天皇の後見として太政官の会議を指導するという、摂関政治の基礎が作られた。969年忠平の息子サネヨリは源満仲の密告によって、最後の有力公卿源満仲を失脚させ(安和の変)、政治的地位を確立した。藤原北家は、摂政、関白を独占したため、摂関家と呼ばれるようになった。10世紀後半から11世紀中ごろまでの藤原北家中心の政治を摂関政治と呼んでいる。
摂関政治おいては、摂関が天皇をないがしろにして専制をふるったかのようなイメージが作られたこともあったが、実際に天皇の政務を代行できたのは、天皇幼少時の摂政だけであり、幼少の天皇の時期は少なかった。むしろ成人の天応の政務を、協調的に補佐していた時期が大部分であった。
摂関は天皇をないがしろにしたわけではないが、権勢を振るったのは事実である。
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「グローバル化」のもとでの国家・政治の役割と意義
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近年のコミュニケーションや交通手段の飛躍的発達は、国境を越えた、人々の経済活動や文化交流などを盛んにしている。インターネットの普及によって、さまざまな情報は瞬時に世界に伝達され、各家庭に届き、新たな事態を引き起こす。国家はもはやこのような活動や情報の流れを押しとどめることはできない。「国境を越え、人簿と野に津上生活が地球的規模で展開される、ヒト・モノ・カネ。情報の往来の上に成り立つ」グローバル化という形をとって急激に変化する世界にあって、どのような組織、統治機構や政府、政治が仏ようとされるのか、新しいガバナンスの形が問われている。
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教育学の方法論と教育政治学
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教育学について
他の学問分野(例えば心理学)と比較してみると、教育学の大きな特徴として、方法論の欠如があげられる。教育政治学を例にとってみると、教育政治学とは、政治学の研究手法を用いて教育現象を政治的側面から分析していくこと、ということになろうが、これは教育学独自の手法ではなく、政治学の研究手法を教育現象に援用しただけのことである。
このように、教育学は方法論がないためにどういうことになるのかというと、研究手法の比較的明確な学問分野(心理学、政治学、社会学、哲学など)の手法を援用、もしくは踏み台にして教育を論じていくことになる。いくら教育学といえども、ある研究手法を用いずに、あるいは踏み台にせずに教育を研究し、論じることはできないということである。何の研究手法も用いずに、あるいは何も踏み台にせずして研究をしても、混沌状態から抜け出せないので結局何をしたのかわからなくなってしまう。
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宗教改革の展開を政治との関連において説明せよ
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「宗教改革の展開を政治との関連において説明せよ」
宗教改革の起こった背景からみていく。
背景はいくつもあるが、ローマ・カトリック教会の搾取に耐えかねた、各国のキリスト教徒の民族主義的な抵抗をまず挙げることができる。自領・自国の教会財産を没収し、領民・国民の支配しようとする、世俗権力者の野望もその一つである。また、1348年のペストの大流行による民衆の激減により、人々は救済を求めていったのである。しかし、民衆を救うのが宗教であり、教会であったはずが、当時の教会は分裂によりその権力を低下させ、身近な聖職者達は堕落し、もとより末端の聖職者を養成する教育機関が無かったのである。
このような中、マルティン・ルターの宗教改革はドイツでおこる。次に宗教改革の推移についてみていく。
宗教改革の発祥のドイツは当時、一つの主権国家ではなく、神聖ローマ帝国と称し、三百余の領邦と帝国都市の連合体であった。七名の選帝侯が皇帝を選ぶのだが、事実上、ハプスブルグ家が帝位を世襲していた。帝国内の支配権強化をねらう皇帝と、領邦国家化をもくろむ諸侯とが何かにつけて対立していた。したがってドイツはローマ教会に対する宗教的な闘争が、ローマ教会の守護者を自任する皇帝に対する政治的な闘争と結びつきやすい状況にあったといえる。さらにドイツにはローマ教会に批判的な人文学者がいたことや、論争を瞬時に拡大する大量宣伝手段となりうる印刷術が発達していた。一介の進学教授の投じた一石が大きな政治的・社会的運動を触発する条件が揃っていたのである。
ドイツの宗教改革は1517年に始まる。この年、マルティン・ルターは「95か条の提題」を発表する。これはローマのサン・ピエトロ大聖堂再建費用調達のための贖宥状の販売を機に、免償による罪の赦免というカトリック教の教理にたいして疑義を呈していた。免償というのは、在任が教会に蓄積されているキリストともろもろの聖人の功徳にあずかることによって罰を免じられることである。贖宥状はかつて十字軍遠征やローマ巡礼にたいして与えられた。これが簡単に買えるというのだから、罪の意識にさいなまれ、救いを求めていたキリスト教徒にとってこれほどありがたいことはない。しかし、ルターは、金で罪を贖えることや、教会が罪を神にかわって赦すことを不可能であると考えた。人が犯す罪よりも堕落し腐敗した人間性そのものが問題と考えたからである。ルターは信仰や善行によって救われると説いたのである。
ルターの「提題」は活字印刷されて流布し、反響を呼んだ。民衆はルターの教えに救いを信じた。しかし、ローマ教皇はカトリック教会の危険を感じ破門としたが、ルターは精力的に著作活動を続けた。帝国追放を言い渡されたルターはザクセンの選帝侯フリードリヒに保護され、この間ルターの蒔いた種は、様々な政治的・社会的要求と絡み、内乱の嵐を巻き起こす。
「貴族戦争」や「農民戦争」がおこり、その後、宗教改革は領邦君主によって遂行されていく。ルターと宗教改革とに敵対的であった皇帝カール五世はオスマン・トルコ勢力との対抗上、諸侯の協力が不可欠と見て領内の宗教改革を許し、改革派諸侯はルター派の教会制度を採用する。更に改革派はシュマルカルデン同盟を結成し、シュマルカルデン戦争が勃発。後にアウクスブルグ宗教和議が締結される。これにより諸侯は、カトリック教会かルター派教会の選択権を獲るのである。これ以後、ドイツ以外のデンマークやスウェーデン等の北ヨーロッパ諸国に根を下ろすのである。
次にジャン・カルヴァンの宗教改革についてみていく。
カルヴァンの神
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カルヴァン
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革命終結後のフランスにおける政治・心象・象徴
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しばしば『伝統的』という形容詞によって重くのしかかられている政治的歴史を犠牲にしながら、新しいと称揚されている社会文化的な歴史というものが数十年前より成長してきている。そして確かなことに、まさにそこから好奇心の復活というものが湧き上がってきたのであるが、その好奇心というのはそれ以来、物質文明のすべての現実や日常生活における事実、精神傾向や大衆文化、そして生活環境などその他に対して向けられている。この欲求がなければ、版画は『本格的』な歴史としての欄になることはなかっただろう。
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『職業としての政治』の要約・歴史的意義・感想
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①『職業としての政治』の要約
政治とは非常に広い概念だが、ここで政治という場合、政治団体、すなわち現在でいう国家の指導、またはその指導に影響を与えようとする行為を考えることにする。では、その「国家」の社会学的な定義とは何か。近代国家を社会学的に定義するため、国家を含めたすべての政治団体に固有な、特殊の手段、つまり物理的暴力の行使に着目する。おそらく、暴力行使は、国家に特有な手段であろう。今日では、国家とは、ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体である。すなわち、国家以外のすべての団体・個人に対しては、国家の側で許容した範囲内でしか、物理的暴力行使の権利が認められていない。要するに、現代では、国家こそが暴力を行使することができる権利をわれわれに与えうる唯一の存在である。なので、われわれにとっての政治とは、国家間においても、国家内の人間集団相互の間においても、暴力=権力が配分され、その権力の配分関係に影響を与えようとする行為であるといえるのだ。
これは、日常用いる「政治的」という言葉の用いられ方からも正しいといえる。あらゆる「政治的な」事柄を考える際にも、権
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職業としての政治
感想文
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日本史1(鎌倉幕府と執権政治について)
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『鎌倉幕府と執権政治について』
鎌倉幕府の確立を成し遂げた源頼朝は、正治元年(一一九九年)1月に突然死去した。頼朝の嫡子だった頼家が後を継ぐものの、頼家の専制がひどく、また頼家が若年であったこともあり、政務を任せることに不安を抱いた有力御家人が「十三人の合議制」を築いた。「十三人の合議制」とは頼家に代わって裁判と政務を執行する政治体制である。この合議制の中心にいたのが頼家の外戚にあたる北条氏である。しかし、将軍位を争う血なまぐさい権力闘争の根は絶たれることはなかった。有力御家人らによる権力闘争が現実のものとなり、正治二年(一二〇○年)に北条時政・義時父子は有力御家人であった梶原景時を討伐し、建仁三年(一二○三年)には頼家の外戚に当たる比企能員を殺害した。ここに北条氏の台頭が始まったと言えるだろう。
建仁三年(一二○三年)北条時政は頼家を伊豆の修善寺に幽閉する。そして、元久元年(一二○四年)に頼家の弟にあたる実朝が次の三代目将軍に就くと頼家は時政によって殺害された。時政は将軍の実朝を補佐して「執権」という地位に就き、政治の実権を握ることになる。ここに「執権」制が成立することになる。
翌年の元久二年(一二○五年)に時政は娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと試みるが、時政の子の義時と北条政子はこの動きに反発し、有力御家人と連携して時政を引退させると共に、平賀朝雅を抹殺した。この事件で「執権」は時政から義時へと移る。
北条義時は北条氏権力の確立に努めたが、侍所別当の和田義盛が対抗勢力として現れた。政所別当の義時は建保元年(一二一三年)に和田義盛を破り、侍所別当の地位を手にして幕府内における地位を高めることに成功する。
一方、このころ朝廷では後鳥羽上皇が和歌などの芸能を通じて将軍の源実朝と深く結びつき、間接的な幕政の介入を目指していた。また武芸にも深い関心を持っていた後鳥羽は武士団を統率し、かつての後白河のような国政の主導権を発揮しようとしていた。
そのような中、武力紛争の絶えない幕府の状況は、承久元年(一二一九年)頼家の遺児の公暁が将軍の源実朝を鶴岡八幡宮にて殺害するという最悪の事態に陥る。表面的には源家の家督争いだが、その背景には義時の謀略も想定される。幕府は摂関家出身の藤原頼経を将軍に迎え、公武の融和をはかるも後鳥羽は幕府打倒の意思を固める。これが承久三年(一二二一年)の承久の乱へと続く。これは幕府側の勝利に終わり、幕府軍を率いた北条泰時・時房は六波羅に常駐し、六波羅探題が成立する。これにより幕府側の京・西国支配体制が築かれて、国政の主導は完全に幕府へと移行した。
義時の後に「執権」となった北条泰時は、義時や政子といった幕府創業世代の死去による世代交代期の混乱を防ぐために叔父の時房を「執権」の補佐役である連署にあて、有力御家人の最高合議機関である評定衆をおき、集団指導体制を確立する。
承久の乱後、急増した訴訟問題などに対して、貞永元年(一二三二年)に泰時を中心として、理非に基づく合議採決の基準を定めた御成敗式目と呼ばれる武家法が制定される。これは武家による最初の本格的成文法で、以後永く模範とされる。泰時の「執権」期の幕府の体制は、将軍専制政治より執権政治という新たな段階へ移行したと評価することができる。
仁治元年(一二四〇年)に連署時房が、仁治三年(一二四二年)には「執権」泰時が相次いで没し、次の「執権」の北条経時は病弱であったために、北条時頼に「執権」を譲った。この様な状況下、「執権」北条氏に対抗する勢力が将軍頼経周辺に形成されはじめる。当初権力基盤の弱
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日本史
鎌倉幕府
執権政治
佛大
770 販売中 2007/11/17
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日大通信 国際政治論 分冊Ⅱ
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問1 現代国際政治における安全保障概念の多様性について説明しなさい。
キーワード 国家安全主義 非伝統的安全保障
問3 EU(欧州連合)の統合過程とその拡大について述べなさい。
キーワード マーストリヒト条約 シェンゲン条約
合格レポートですがあくまでも参考にお使いください。
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日本大学
日大
国際政治論
安全保障
EU
欧州連合
660 販売中 2017/12/19
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【合格レポート】国際政治学 分冊2
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「先進工業国と発展途上国との間には今日、どのような諸問題があるかについて、具体的に説明しなさい。/グローバリゼーションが進展する今日の国際社会の課題について、具体的な事例を挙げて説明しなさい。」
先進工業国と発展途上国との間にある今日の問題について説明したいと思う。
なぜ世界の諸国家は二分化され、貧富の格差が生まれるようになったのか。その根本的原因は19世紀後半に到来した帝国主義政策によるものが大きいと私は考える。
白人を中心とした欧米国家はアジアやアフリカの植民地化を目指して侵略した後、製品の原材料となる一次産品の生産を強制した。そして英仏などの宗主国はそれらを安く買い上げ、自国の加工貿易発展のために利用した。やがて第二次世界大戦が終わると同時に、帝国主義のそれも終わりを告げたのだが、旧植民地の経済構造は長年一次産品の生産に特化していたため、モノカルチャー経済化していた。それが原因となり、経済発展が阻まれていた。この赤道を基準にした南北国家間の経済格差こそが、南北問題である。
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日本大学
日大
通信教育部
通信
通教
レポート
国際政治学
分冊2
モノカルチャー経済
南南問題
ミレニアム開発目標
南北格差
市場経済
世界金融危機
参考3つ使用
880 販売中 2010/05/18
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幕藩制確立期の幕府政治
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江戸幕府の支配体制は幕藩体制と呼ばれ、中央政府である幕府と地方政府である藩の二重支配による封建的政治社会体制である。
全国領地は幕府領(天領)・大名領(藩領)・旗本領・寺社領および皇室・公家領の分割領有支配で、江戸幕府を頂点としながらも、各大名が其々の領地において統治機構(藩)を形成し、全労働剰余の搾取、主に米等を現物で納めさせて年貢とする石高制を基礎とした。なお、将軍の直轄地(天領)では大名の代わりに代官を置いた。士農工商の職能身分制度によって武士を支配階級に位置づけ、人々は其々集団に属し規制を受けながら生活した。商工民は生産・商売自由の特権を与えられ城下に集中し、領主にとっては年貢米の第一市場となった。
幕藩制は兵農分離と石高制・領国制が特質づけられるが、このうち兵農分離と石高制は、豊臣政権における太閤検地と刀狩りに身分法令を主とする諸政策を基礎にしたものである。
江戸時代の初期(慶長・元和)は幕藩体制の土台ができた時期とみる。江戸幕府開設後、初代将軍徳川家康は2年で将軍職を2代秀忠に譲り、江戸・駿府の二元政治により政権世襲の布石とし、一六一五年(元和一)大坂の陣で豊臣氏を滅亡させ
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日本大学
日大通信
報告課題
科目修得試験
880 販売中 2009/09/07
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新しくなった
ハッピーキャンパスの特徴
- 写真のアップロード
- ハッピーキャンパスに写真の
アップロード機能ができます。
アップロード可能なファイルは:doc .ppt .xls .pdf .txt
.gif .jpg .png .zip
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