私は「学校は商業的性質を取り入れるべきなのか」ということをこのレポートで論じていきたいと思う。そのためにまず、『教育哲学』の第五章の高山先生が理想とする教育の場について触れている部分をまとめてみよう。
学校とは教育を目的として用意されている場であるが、ゲゼルシャフトとして考えていいのか。
ゲゼルシャフトとは人為的契約社会のことであり、目的をもって設立され、それが解消されると解散される社会である。また、それに対して、ゲマインシャフト(自然的共同社会)というものがある。これの例として、家族があげられる。ここで一般に、学校はゲマインシャフトではないことは容易にわかるだろう。では、学校はゲゼルシャフトなのだろうか。
まず、ゲゼルシャフトについて述べておく。ゲゼルシャフトとは生まれながらに自由平等な単なる人の集まりを前提とし、利益や契約などの商工業の目的から社会が作られたとする考え方である。ここの要点は商工業からきたものであり、自由主義が一般に採用されるものである、ということだ。
ゲゼルシャフトについて述べたが、この章で高山先生は「協同社会」という概念を提唱している。そして、これを教育の場にあるべき社会だとしている。この協同社会というのは、ゲゼルシャフトのただ単なる人の集まりという考え方とは違い、ギールケが提唱したゲノッセンシャフトの「人間社会は成員の総体である」という考え方からきている。「成員は社会のために、社会は成員のために」という「one for all , all for one」の精神がある社会、公と私とが組織的に調和している社会こそが協同社会なのである。そしてこれこそが、現実で理想、理想で現実の社会であり、人間社会には必ず根底に存在している社会なのだ。
ここで自由についてだが、ゲゼルシャフトで言う自由とは少し悪い言い方をすれば、自分勝手な自由である。それに対し、協同社会での自由というものは、責任を帯びた自由であり、そこには禁欲の精神が必要となってくる。言わば、道徳的な自由なのである。このことは人間社会で生きる上で自然なことであり、人は自分のために生き、人のために生きるという、矛盾のようなものを同時に行っていくことを意味している。ここから、公私葛藤が生まれるのである。
二章を思い出してもらうとわかるが、生まれながら自由平等、本来完全とする人間観では、自己教育・自己形成は必要なくなってしまう。だが、ここで述べた協同社会の「人は私として、公として、努力して生きる。人はこのように努力する限り、過ちをおかす存在であり続ける」という人間観だと、人には生涯に渡る精進と自己教育が必要だということになるであろう。学校とは人生教育の発端であり、一生続けていくべき自己教育・自己形成の方法を身につけさせるための場であるのだ。
よって、学校は協同社会でなければならない。
上に述べたものが高山先生の「学校が協同社会であるべき理由」について要約したものである。これを受けて私は「学校に商業的性質を取り入れるべきなのか」ということを「商業的性質を取り入れるとどうなるか」という視点から論じていきたい。また、「学校はどのような場であるべきか」という観点から結論を論じようと思う。
まず、「商業的性質」とは何なのかをはっきりさせておく必要がある。商業とは、企業がお客様にサービスを与えることを通して、その見返りを要求するものである。言い換えると、企業と利用者がサービスとそれに見合う何かを交換するものである。つまり、「学校に商業的性質を取り入れる」とは、学校は教育というサービスを、授業料