連関資料 :: 革命

資料:71件

  • 革命的発想Part Ⅱ
  • 「革命的発想」(Part I)では、「オス社会」を頂点にしたトライアングル型社会が持つ病巣こそが、 (1)支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別社会 (2)宗教と科学の社会 (3)悩みや四苦八苦、挙げ句の果ての、死の恐怖に苛まれる社会 (4)差別・不条理・戦争を繰り返す社会 であると結論づけました。 そして、こんな人間社会を健全なものにするには、「メス社会」が進化した「女性社会」しかない。 つまり、「オス社会」を頂点にしたトライアングル型社会が知的文明社会であったのに対して、「メス社会」が進化した「女性社会」を中心にするスクエアー型社会こそが、知的文明社会から脱知的文明社会に進化した社会に他ならない。 では、「女性社会」を中心にした脱知的文明社会とは一体どのような社会なのでしょうか? まさに、同等社会に他なりません。 拙著「同等社会」を締めるにあたって述べました。 “自分さえ好かったらいい”という考え方を全否定して、“他人が先ず好かったらいい”という考え方を持つようになったときはじめて、我々人間社会にも同等社会が実現するのである。 畢竟、“自分さえ好かったらいい” → “他人が先ず好かったらいい” こそが、「革命的発想」の核の考え方に他なりません。 「革命的発想」(Part II)では、如何にしたら、“自分さえ好かったらいい” → “他人が先ず好かったらいい” の考え方に変わることができるかについて検証してみたい。
  • 革命的発想 人間の考え方 人間の存在理由 人間の知性度 完全な知性 知性 知る能力 死を知る能力 超知性 死を受け入れる能力 時代 超える 超時代 社会 経済 哲学 女性 日本 人間 現代 21世紀 個人の時代 政治 価値観 常識 生き方 死に方 人間学 人間力
  • 1,100 販売中 2013/03/18
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  • 「デルの革命」を読んで−デルから学べること−
  • このレポートを書くための課題として「デルの革命」を読んだわけだが、その内容を軽くまとめてみる。この本の著者であるマイケル・デルは、子供の頃から家族の影響でビジネスチャンスというものに敏感であった。十五歳の誕生日に両親にせがんでアップル?を買ってもらったが、設計や構造に興味を持ち、すぐに分解してしまった。コンピューターに興味を持ちながらも、両親の希望でテキサス大学に入学した。大学に通いながら寮の一室で創業した。ビジネスが成長を続けた時、フルタイムでの事業への専念による可能性を考え始め、両親に黙って大学一年が終わった時点で中退した。元手は1000ドルであったが、ダイレクト・モデルによる驚異的急成長で全米第1位のPCメーカーとなった。  デルの成功要因は一言では言えない。そもそもデルの考え方自体が斬新で他とは違うのだと思う。デルの考え方の多くは子供の頃からのものが多いようである。無駄なプロセスを省略したいというところから中間業者を排除することなどである。家庭環境のために常に、ここにはビジネスチャンスがあるという視点で考える癖があったことも他社に差をつけることが出来た要因として挙げられると思う。また、いつも目標を高いところに設定している。十八歳の時点で、「IBMよりも優れたコンピューターを作り、直接販売することで顧客により大きな価値とサービスを提供し、業界でナンバーワンになること」を考えていたのには驚く。著者自身も書いている通り、はっきり言って頭がおかしいと思ってしまう。しかし、実際にIBMを抜いたわけだから、すばらしい。その大きな野望を実現出来たことには、失敗を恐れず仮に失敗しても、そこから何かを学び、同じ失敗を二度と繰り返さないようにしようという姿勢があるからだ。オリンピックの時にも、「オリンピック」という開発コード名のもとで一連の製品を発売する計画を立てていた。
  • レポート 経営学 デル コンピュー IBM ダイレクト・モデル
  • 550 販売中 2005/11/09
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  • 企業情報システム 「情報革命について」
  • 1. 情報革命とは何か 1.1. 情報革命の意味    情報革命とは、広義には「人類の歴史における情報の加工と蓄積に関する革命的な状況」であると定義付けることができる。 1.2. 情報革命の歴史    情報革命には、第1次から第5次までの歴史がある。    第1次情報革命(生命が誕生した頃)では、ヒトが言語能力を手に入れたことによって、互いにコミュニケーションできるようになった。 第2次情報革命(紀元前4000年~紀元前1500年頃)では、文字の発明によって、情報を紙に記録して空間的・時間的に移動したり、情報を分類・体系化したりすることができるようになった。    第3次情報革命(1450年~1500年頃)では、活版印刷の発明によって、情報の大量伝達ができるようになった。    第4次情報革命(1830年~1960年頃)では、電気通信の開発によって、電話、ラジオ・テレビ等での情報の遠隔伝達ができるようになった。    第5次情報革命(1950年代以降~現在)では、コンピュータが出現し、インターネットが急速に普及したことによって、情報の大量・遠隔・即時伝達ができるようになった。 2. その社会的影響はどのようなものか 情報革命が起きたことによって、情報化社会が到来した。ここで言う「情報化」とは、一般的には「コンピュータ化」と同義であり、「情報を物質、エネルギーに次ぐ第三の要素として認識し、その生成、加工、伝達、蓄積、利用を意識的に行おうとする活動の総体」であると定義付けることができる。 情報化社会に対して、現在二つの見方がある。
  • 情報 歴史 インターネット 企業 コンピュータ 情報化 情報化社会 システム IT IT革命 情報革命
  • 550 販売中 2009/12/29
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  • 辛亥革命の原因について述べなさい
  • ●課題1 辛亥革命の原因について述べなさい。  まず最初に(1911年)の辛亥革命は、当時の中国人の積年にわたる清朝支配への不満が爆発して起こったものであるといえる。そこで、まずは清朝の凋落と民族運動勃興の過程について眺めていきたいと私は考える。(1851年)に起こった「太平天国の乱」は、最終的には清朝側に鎮圧される結果となったものの、これは満州人によって行われたものではなく、外国人の指揮する軍隊によって平定されたのであった。こうしたことから、中国内部においては清朝支配への疑念が高まっていくこととなる。とはいえ、この時期の中国は、中国本土以外にも満州やチベットなどを領有し、更には朝鮮やベトナムの宗主国であったことなど、依然として強大な国であるという考え方がなされていた。また、革命を起こしてしまうことで、これらのアジア共同体が解体されてしまうという懸念もあったため、清朝打倒の動きは激しくなることはなかった。  しかし、その後(光緒帝)の時代になると、外国との戦争に敗北して国威を失墜させることになる。「清仏戦争」の結果ベトナムがフランスに奪われ、「日清戦争」によって朝鮮への影響力を失ってし
  • アジア史 模範解答
  • 550 販売中 2009/10/01
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  • 経済学Ⅰイギリスの産業革命
  • 経済的視点から、イギリス産業革命の意義について考えると、産業革命は植民地の拡大など影のある歴史でもあるが、歴史に影はつきものであり、現在につながる大きな経済の進歩であったといえることは確かである。 まず、産業革命の意義について考えてみる。 産業革命とは、18世紀から19世紀にかけて起こった工場制機械工業の導入による産業の変革と、それに伴う社会構造の変革のことである。市民革命とともに近代の幕開けを告げる出来事とされるが、近年では産業革命に代わり「工業化」という見方をする事が多い。ただしイギリスの事例については、従来の社会的変化に加え、最初の工業化であることと世界史的意義を踏まえ、現在でも産業革命という用語が用いられている。 マニュファクチュアの発展の頂点に生み出された工場制度は、すでにかなりの程度までつくりだされていた無産の賃労働者群を雇用して、機械に配置して働かせ、大きく利潤を生み出していった。この工場制度の出現は、機械の利用によって一度に多くの商品ができるため、労働者一人あたりの生産高はきわめて多く、市場に対して安い商品を大量に供給することができた。 こうして工場制度は、資本の発展
  • 歴史 経済 イギリス 社会 産業革命 問題 産業 労働 ヨーロッパ 革命
  • 550 販売中 2009/03/16
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  • 流通革命から見る今後の流通業
  • 流通革命から見る今後の流通業 流通業は製造業と比べると、古くから良い印象を持たれていません。しかし、この文章にも、「将来最も望み多い分野である。」とあるように、現在、もしくは今後、最も重要であり、また必要とされる分野ではないか、と私は思います。  就職活動において、私はこの分野に深く興味を持っており、また、現在最も求人の多い業界でもあります。そこで、今回私は、例として一つの企業を取り上げ、就職活動における観点から流通業の現状、そして今後のあり方を述べようと思います。 流通業、中でも小売業や、いわゆるサービス業と呼ばれる川下の分野は、営業時間の拡大に伴い、終業時間が遅くなり、コンビニエンスストアのように24時間交替制で出勤しなければならないこともあります。また、接客業であるので、顧客満足を追求し、より良いサービスが求められる時代となりました。このような点から、就職においてのこの分野への人々の関心は低く、好んで就職しない傾向があります。しかし、求人が多い理由として、製造業が機械化され、人が必要とされていないこと、そして、現場主義といわれるように、まず現場を経験し、お客様の生の声や、自分の目
  • レポート 経営学 アドバンスクリエイト 流通 保険
  • 550 販売中 2007/05/29
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  • 清朝末期-改革派と革命派-
  • 列強の利権獲得と勢力圏分割競争の舞台となる中で、清王朝末期の知識人たちは対外的危機意識を高め、亡国の危機を感じ、「この危機を乗り切るためには近代的な国家を作ることが必要である」という『救国救亡』の認識を持っていた。しかし、同じような危機意識を抱き、近代国民国家を目指した彼ら知識人エリート「士大夫」の中には、改革派と革命派という大きな二つの流れが存在したのである。  根本においては、改革派も革命派も、どちらも「強く豊か、かつ民主的な中国をつくる」という点を目指していた。この意味では同じものを目標としていたといえるが、厳密には、両派の定義する「中国」は全く違っていた。すなわち、改革派が満州人も含め文化や徳を持つ者が中華だと考えるのに対し、革命派は、漢民族のみが中華だと考えていた。  そして、改革派は清朝という王朝を体制変革によって清国という国家にすることで危機をのりきろうと考え、あくまで清朝の存続のもとでの改革を行おうとした。一方、改革派は、清朝を倒し民主主義の共和国である漢民族の中華民国の樹立を目指した。  同じ『救国救亡』の意識をもちつつも、改革派と革命派は『中華』の概念を異にし、また、それが故に目標とする政治構想も決定的に違っていたのである。
  • レポート 史学 中国 清朝 孫文 改革 革命
  • 550 販売中 2005/07/27
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  • 科学革命が起こるとき クーンのパラダイム論
  • 科学革命が起こるとき クーンの「パラダイム論」 科学の現場から離れた「科学論」  「パラダイム(paradigm)」あるいは「パラダイム論」といえば、もちろんT・クーン著『科学革命の構造』(原著初版一九六二年、改訂版一九七○年、改訂版に基づく邦訳一九七一年)に展開されている科学と科学の歴史についての見方、科学論のことを意味する。実際、クーンは『科学革命の構造』の冒頭で、パラダイムを「一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの」と定義し、この語を自らの科学論のキーワードとしたのである。  一九二二年に生まれたクーンは、アメリカの名門ハーバード大学で物理学を修めた後、科学史に転じた。カリフォルニア大学バークレー校で科学史を講じ、天文学史におけるコペルニクス革命の意義を論じた好著『コペルニクス革命--西洋思想の発展と惑星天文学』(原著一九五七年、邦訳一九七六年)を著して科学史家として高い評価を獲得した。そして、『科学革命の構造』の執筆に際して、クーンは、「モデル」「概念枠組み」「概念図式」などといった、科学論の歴史の中でいささか手垢のついてしまった用語を避けて、あえて一般には馴染みのない「パラダイム」という用語を選んだのであった。  この本は、出版後数年を経ずして、科学史・科学論の歴史上、空前の問題作として、論議の焦点となった。かくて、クーンは「時の人」としてプリンストン大学に招聘され、さらにMIT(マサチューセッツ工科大学)に転じ、自らの科学論の弁明・精緻化に務めるとともに科学史研究に没頭した。そして、彼は一九九六年、惜しまれながら病のため他界した。このニュースは、少なくとも科学史・科学論の世界では、一種の衝撃を伴ってかけめぐった。彼の存在、彼の科学論・パラダイム論はそれほどに大きかったのである。  ところで、元来、パラダイムという語は、語形変化のパターン=模範例を意味する文法用語にすぎなかった。なぜ、クーンは、この語を自らの科学論のキーワードに選んだのだろうか? 惜しくもクーンは他界したので、もはや直接、聞き質すすべはなくなった。そのうち遺稿が整理されて、出版され、その中にパラダイムという語をどのような経緯で見出し、使用するに至ったかが明らかになるかもしれない。  筆者は、一九八六年に広島を訪れたクーン夫妻と親しく会食する機会があったのだが、その際にパラダイムという語の使用について本人にたずねなかったことが今更ながら悔やまれる。というのも、筆者自身、今から二十五年ほど前『科学革命の構造』を読み、そこでパラダイム概念に出会ったたことがきっかけとなり、科学論の世界に方向を転じたからである( 成定、一九九六年 )。  確かに「科学とは何か」に関して、パラダイム論以前にも緻密な議論が積み重ねられてはいた。筆者も独学ながら、科学論の世界を垣間みたりしたのだが、そこで論じられていることは、当時、自ら身を置いていた科学研究の現場や実態とは随分かけ離れているように思われた。しかし『科学革命の構造』との出会いによってはじめて筆者はパラダイム論という観点から科学論に目を向けるようになったのである。   科学論の四つの発展段階  ベルギーの認知心理学者M・ドゥ・メイは、最近、科学とは何か、科学知識はどのような特質をもち、どのように獲得することができるかなどをめぐる議論、すなわち「科学論」の発展を、次の四つの段階にまとめている(ドゥ・メイ、一九九○年)。   (1)モナド論的段階--古典的実証主義  科学知識
  • 全体公開 2007/12/24
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  • 文化大革命十年史を読んで
  • 文化大革命は中国および世界の歴史において最も異様な現象であった。10年にわたって続いたこの内乱による死者は3万4千8百人におよび、中国の経済損失は5千億元に達したという。しかし、中国および世界の情勢に決定的な影響を与えたこの歴史的大事件への本格的研究は今までなかったという。本書は1989年の第2次天安門事件前に政治の民主化を勇気をもって主張した著者が、膨大な資料に基づき文革の背景と全過程を詳細に究明し、その歴史的意義を真っ向から問うたものである。しかし、筆者の様々な事象への目配りや文革の本質への言及は高く評価されるべきものではあるものの、本書は基本的には歴史的事実を解明するに留まっていると考える。理路整然と文革の進展を説き起こしていきつつも、文革を毛沢東の権力への執着や、林彪や四人組ら「君側の奸」の私利私欲に基づく「愚行」と感情的に捉える側面があることは否定できない。文革の10年を狂気と野心の産物として片づけるのではなく、なぜこのような狂乱がこれほど長い間続けられたのかを徹底的に追究せねばならない。むろん様々な要素が絡み合い複雑怪奇の様相を呈す文革を全面的に検討することなど、私の力量では不可能である。本レポートは文革を主導した毛沢東の政治理念について若干考察することで、文革理解の一助とならんことを目指すものである。  文革の検討に入る前に、文革以前の中華人民共和国と毛沢東を大ざっぱに見ておこう。1949年、中華人民共和国を建国した毛沢東は、まず農村の振興と農民の生活安定を第一とし、農民集団的な力による自力更正を重視した。農村には人民公社・生産大隊・生産小隊が組織され、勤勉、扶養、親和協力が要求された。自由競争は否定され、外国貿易は抑制され、商業は限定された。農民労働者も国家の高官も、質素倹約に努めることが要求され、ファッションも宝石も豪邸も禁じられた。  むろん毛沢東は経済発展を否定したわけではなく、工業に力を入れるべく「大躍進」を唱えた。しかしそのモデルとして作られたのは山西省昔陽県の大寨生産大隊であった。外国の援助に頼らず、新技術の導入も考えず、大衆的な「土行製鋼」による製鉄を目指したのである。  このように見ていくと、毛沢東の目指した社会のビジョンは明らかである。すなわち農村・農民を基盤とした「自給安定社会」である。そして、これを維持していくには全ての特権とその世襲を禁じる必要がある。人民共和国成立以前に軍閥の乱立や政府官僚・資本家による不正が生み出した混乱を目の当たりにしてきた毛沢東にとって、人民間の絶対的な平等は達成されなければいけない目標だったのである。
  • レポート 史学 文化大革命 毛沢東 中国
  • 550 販売中 2005/07/31
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  • 革命終結後のフランスにおける政治・心象・象徴
  • しばしば『伝統的』という形容詞によって重くのしかかられている政治的歴史を犠牲にしながら、新しいと称揚されている社会文化的な歴史というものが数十年前より成長してきている。そして確かなことに、まさにそこから好奇心の復活というものが湧き上がってきたのであるが、その好奇心というのはそれ以来、物質文明のすべての現実や日常生活における事実、精神傾向や大衆文化、そして生活環境などその他に対して向けられている。この欲求がなければ、版画は『本格的』な歴史としての欄になることはなかっただろう。
  • レポート 国際関係学 フランス フランス革命 政治 心象 象徴
  • 550 販売中 2006/07/30
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  • 『文化大革命十年史』を読んで
  • 文化大革命は中国および世界の歴史において最も異様な現象であった。10年にわたって続いたこの内乱による死者は3万4千8百人におよび、中国の経済損失は5千億元に達したという。しかし、中国および世界の情勢に決定的な影響を与えたこの歴史的大事件への本格的研究は今までなかったという。本書は1989年の第2次天安門事件前に政治の民主化を勇気をもって主張した著者が、膨大な資料に基づき文革の背景と全過程を詳細に究明し、その歴史的意義を真っ向から問うたものである。しかし、筆者の様々な事象への目配りや文革の本質への言及は高く評価されるべきものではあるものの、本書は基本的には歴史的事実を解明するに留まっていると考える。理路整然と文革の進展を説き起こしていきつつも、文革を毛沢東の権力への執着や、林彪や四人組ら「君側の奸」の私利私欲に基づく「愚行」と感情的に捉える側面があることは否定できない。文革の10年を狂気と野心の産物として片づけるのではなく、なぜこのような狂乱がこれほど長い間続けられたのかを徹底的に追究せねばならない。むろん様々な要素が絡み合い複雑怪奇の様相を呈す文革を全面的に検討することなど、私の力量では不可能である。本レポートは文革を主導した毛沢東の政治理念について若干考察することで、文革理解の一助とならんことを目指すものである。  文革の検討に入る前に、文革以前の中華人民共和国と毛沢東を大ざっぱに見ておこう。1949年、中華人民共和国を建国した毛沢東は、まず農村の振興と農民の生活安定を第一とし、農民集団的な力による自力更正を重視した。農村には人民公社・生産大隊・生産小隊が組織され、勤勉、扶養、親和協力が要求された。自由競争は否定され、外国貿易は抑制され、商業は限定された。農民労働者も国家の高官も、質素倹約に努めることが要求され、ファッションも宝石も豪邸も禁じられた。
  • レポート 史学 文化大革命 毛沢東 中国 万民の平等 四人組
  • 550 販売中 2005/07/31
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