風刺画・挿絵と文学
挿絵が生まれ、広く描かれるようになる背景には、どのような社会状況があったのだろうか。挿絵は19世紀に本格的に描かれるようになるが、それ以前は風刺画(サティカル・プリント)の時代であった。
1. 風刺画の流行
風刺画が生まれたのは17世紀のイタリアである。アニバレ・カラッチという画家が本来の画家の仕事のあいまに風刺画を描いたのが始まりで、カリカチューラ(英語のカリカチュア)という名称はかれの名にちなんだものである。(―清水一嘉 『挿絵画家の時代-ヴィクトリア朝の出版文化』 東京、2001年p.42)
そして18世紀の後半にイギリスで風刺画が流行した背景には、政治的不安定や産業革命による産業の発展や、科学の進歩などがあった。当時の大都市の悲惨な様子をよく表しているといわれるのが、次の作品である。
London
I wander thro’ each charter’d street, Near where the charter’d Thames does flow, And mark in every face I meet Marks of weakness, marks of woe.
In every cry of every Man, In every Infant's cry of fear, In every voice, in every ban, The mind-forg'd manacles I hear.
How the Chimney-sweeper's cry Every blackning Church appalls, And the hapless Soldier's sigh Runs in blood down Palace walls.
But most thro' midnight streets I hear How the youthful Harlot's curse Blasts the new-born Infant's tear, And blights with plagues the Marriage hearse.
Blake, William Songs of Innocence, 1794
William Blakeは自ら詩を書き、自らその版画をつくり、手彩色をしていた作家なので、これは挿絵とも風刺画とも言えないかもしれない。しかし当時のロンドンでは煙突掃除を子供が健康を害して苦しんでいたり、または売春婦がいるような、劣悪な状況であることが詩においてよく表現されている。また、装飾の絵画においては少年が神と思われる老人(この作品の一つ前の45番において神として登場した老人と似ている)を閉まったドアへ導いているが、閉まったドアは暗い印象を与えている。
風刺は厳格な階級制度と高度に安定した社会とは相容れない。(清水、p.44)このような社会状況において風刺が流行したのは必然的と言えるだろう。風刺画は政治、科学万能主義、当時の風俗など、さまざまなものを対象とした。後に挿絵画家として知られるようになるGeorge Cruikshankも、当初は政治的風刺画を多く描いていた。
Cruikshank, George The Head Ache, 1819
風刺画は風景画などとは違い、実際に見えるものを表現することではない。伝えたいことがあり、それを絵で表現するものである。それを見るものに理解させるために、風刺画においては大げさな描写やアレゴリーを含むモチーフが取り入れられていた。