連関資料 :: 古典

資料:36件

  • 日本の古典文学と鬼
  • 『安義橋』・『宇多郡』・『羅城門』の鬼の違い  まず初めに目に付くのは鬼の登場の仕方である。『安義橋』では、鬼は女に化けて初めから橋の上にいた。『宇多郡』では、突如空が掻き曇り、空中から腕が現れて渡辺綱の髪を掴んで引きずり上げた。そして『羅城門』では、しるしの札を置いて綱が帰ろうとしたとき後ろから兜を掴まれ、振り返ると鬼がいた。  第二には、目的達成の成否である。安義の橋に現れた鬼は、結果的に男を食い殺し、目的を果たしたが、宇多の郡の鬼は斬り落とされた自らの腕を奪い返しはしたものの、その後綱や頼光らの命を狙い、逆に討たれてしまった。また羅城門の鬼は安義の橋や宇多の郡の鬼と同じ手段、あるいは同じ目的で邸内に入り込んだにもかかわらず、首尾よく腕を奪い返して去った。ただし、この羅城門の鬼はその後、京を離れたらしい。結果的に言えば綱の勝ちに終わったともいえるだろう。  また主役となる人物にも違いがある。『安義橋』で橋を渡ろうとした若い男は、酒の席での強がりを不本意ながら実践しなければならなくなった。そのため橋に着いた頃には既に心乱れ生きた心地がせず、橋の上にいた女を必要以上に恐れたのだが、逆に、これほどまでに恐れなければ女は鬼に変じなかったのではないかとも思える。しかし『宇多郡』の主人公格である渡辺綱は、女装までして鬼をおびき出し、討ち果たそうとした。『羅城門』でも綱は、肝試しの最中に鬼に襲われるが、慌てず斬りかかり、ついに腕を切り落とした。しかも綱は、舞台である羅城門に向かう際、「鬼を退治せずに二度と人の顔を見るまい」という決心までしていたのである。  これらの物語における、鬼の登場の仕方や人物の違いから考えられる事は、鬼は人の心に付け入ってくるという事だろう。
  • レポート 日本文学 古典文学 陰陽師
  • 550 販売中 2006/01/28
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  • 古典の戦争とこれからの戦争
  • 大辞林には、戦争とは以下のように説明されている。 「武力を用いて争うこと。特に、国家が自己の意志を貫徹するため他国家との間に行う武力闘争。国際法上、戦線布告によって発生し、戦時国際法が適用される。いくさ」  中国最古の兵法書を孫子が書いたのは、中国が群雄割拠の状況下に置かれた春秋戦国時代であった。その書の中に書かれている内容は、単に戦術を連ねたものではなく、技術としての戦争、手段としての戦争に止まらず、戦争の本質を鋭く突いたものである。古典と呼ばれる書物ではあるが、その書かれた言葉は現代においてもいささかも曇ることのない内容ばかりである。古典と呼ばれるものが、古典であるゆえんは、時代を超越して本質に迫るものであるからであり、描かれている内容を現代の人間も延々と繰り返しているからである。その点において、戦争と人間の関係に変化はない。孫子が古典として存在する意義とは一体何なのかを我々は深く考えなければならない。古典である孫子を読み進めることは、技術的戦争を理解し戦争のシステムを捉え、同時にその戦争を繰り返す人間の本質を読み捉えることに他ならない。深くこの書物を読み進めていけば、この言葉の中に戦争というものの本質を捉える、理性的なものを見つけることができる。孫子が兵法書を編纂するまでは、中国では戦争の勝敗とは、天がその勝敗を決定するのであるとされてきた。そこから脱却し、言葉によって戦争というものを表現したこの書物に、我々は一種の人間の究極の理性の一つを見出すべきである。 孫子が古典として存在する理由は、現代においても人間と戦争の関係性と本質に変化がないからであるとした。もう一つ引用したい言葉がある。古代ギリシャの言葉ではある。 
  • レポート 国際関係学 戦争 平和 安全保障
  • 550 販売中 2006/07/31
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  • インド古典舞踊 バラタナティアム
  • インド古典舞踊 バラタナティアム 目次 Ⅰ 研究動機 Ⅱ 本論   1.インド古典舞踊とは   2.バラタナティアムとは      ○成り立ちと今にいたるまでの歴史      ○踊りについて~表現方法~   3.インド伝統音楽について      ○カルナタカ音楽      ○使用される楽器   4.宗教とバラタナティアム      ○ヒンドゥー教      ○ナタラージャ(シヴァ神)について Ⅲ まとめ Ⅳ 参考文献 Ⅰ 研究動機  私が、インド舞踊に興味をもったきっかけは、以前、インド映画を見たことだ。映画中で繰り返し映し出された踊りの優雅さと神秘的な表情、衣装の美しさ、そして、独特な旋律をもつインド音楽に興味をひかれた。また、インドは古くから文明が栄え、特に、宗教的な性質を持つ文化が発展してきた。私は、宗教についても興味があったため、宗教との関係性を見出せるテーマをと考え、インド古典舞踊である「バラタナティアム」をテーマにした。そして、研究を開始する前、実際に研究の参考にするため、バラタナティアムの映像を見たときには、脚色された映画の中の踊りとは違った物語性のある踊りと、繊細な動きの一つ一つに圧倒させられ、バラタナティアムに対する興味が深まった。また、音楽にも、映画とは違った落ち着きと、神秘さがあり、演奏している楽器や、旋律についても研究することにした。さらに、資料を集めるうちに踊りの題材として、シヴァ神が頻繁に登場していることに気がつき、バラタナティアムと宗教との関係を関連付けて研究することにした。  この研究において、私は、バラタナティアムを中心として、インドの歴史、宗教といったものが、インドの民族文化を作り上げる上でどのように作用しあっているのかを明らかにし、民族文化が、我々人間にとって、どのような役割を果たしているのか、ということについて考えたい。 Ⅱ 本論 1.インド古典舞踊とは インド舞踊は世界最古の舞踊と言われており、その起源は四千年前までさかのぼる。インド舞踊は、純粋な意味の舞踊としてではなく、人と神との交流手段として発達し、感情や精神を微妙に表現し得る優れた踊り手と、「ヴェーダ」Veda (古代インド、バラモン教の聖典の総称)によってのみ、神に応えて舞うと考えられてきた。そのため、わずかな目の動き、手の動きにもそれぞれ意味が、そして魂が込められている。ここが西洋のバレエなどと異なる特徴である。インド舞踊は、踊り手がソロで踊るいわゆる“舞踊”、さまざまな役をもった踊り手が登場し、演じられる“舞踊劇”、そして地域色豊かな“フォークダンス”の3つに分けることができる。『ナーティヤ・シャーストラ』などの理論書に大きく依存しているものが舞踊として、それらの理論にとらわれないものがフォークダンス(民俗舞踊)としてみなされている。インドには数々の舞踊があるが、そのうちのバラタナティアムBharatanatyam、カタカリKathakali、カタックKathak、マニプリManipuriの4つが、インドの四大古典舞踊とされている。そして、最近ではこれらに加えて、クチプディKuchipudi、オディッシーOdissi、モヒニアッタムMohiniyattamも古典舞踊として認められている。いずれの舞踊にもそれぞれ大きな特徴があるが、その中でも共通する踊りの要素として、「ヌリッタ」と「ヌリティヤ」がある。ヌリッタとは、特に意味をもたない純粋舞踊の部分のことで、歯切れの良いリズムを踏み鳴らすステップの集合。一方、ヌリティヤとは、手話の単語のような手
  • レポート インド 舞踊 バラタナティアム
  • 550 販売中 2007/10/26
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  • 古典文学概略と斉藤茂吉
  • 古典文学(詩歌)の展開 上代・奈良時代 →原始的な自然採集生活   縄文文化=骨格器・貝器・木器   弥生文化=稲作・鉄器・青銅器 ☆口誦文字→集団の中で生まれる。  記載文字→個人のもの。漢字などが伝わったため。  ―史書(古事記・日本書紀)  ―和歌(万葉集)万葉仮名の使用 ★万葉集→20巻 4500首  ①長歌(5757・・・577) 260首  反歌  ②短歌(57577)      4170首  ③旋頭歌(577577)    62首  ④仏足石歌(57・57・77) 1首   片歌(577)        記紀歌謡の中だけ ★古今和歌集→905年 平安 20巻 1100首  長歌 
  • レポート 日本文学 文学史 斉藤茂吉 文学史概略
  • 550 販売中 2007/10/26
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  • 音楽レポート「バロックと古典派」
  • <「バロック時代の音楽」と「古典派音楽」の相違点>  この2つの時代の器楽曲の特質を見ると、大きな違いとしてまず通奏低音(バッソ・コンティヌオ)があげられる(ただし、独奏曲を除く)。バロック時代の合奏音楽は、オーケストラであれ室内楽であれ、必ず通奏低音付きで演奏された。これはチェンバロやオルガンといった和声楽器の奏者が、与えられた低音の上に即興的に和声を充填しながら、伴奏声部を完成させていく方式である。ここにさらにガンバやチェロ等の低音の旋律楽器がバス旋律を重ねて演奏する場合も多かった。バロック時代において、ヴァイオリン等の新しい楽器が出現し、その器楽形式の発生とそれに伴う様式の発達、ポリフォニーに対してホモフォニックな技法が優先され形成されていった。こうした器楽の発達過程のなかで、各声部の役割分担を重要視した通奏低音という奏法が発生したと考えられる。これが古典派の時代になると、まず室内楽が通奏低音を廃止し、ついでオーケストラがその後を追った。バス声部はもはや一貫して流れる声部ではなくなり、作曲家の書法面からは通奏低音様式は姿を消したのである。  特に室内楽曲においてもこの通奏低音の影響は大きく、バロック時代のトリオ・ソナタ(二つのヴァイオリンとチェロ、通奏低音楽器のチェンバロの四人編成)から、古典派室内楽の弦楽四重奏への発展という大きな相違点を見ることができる。これも通奏低音の放棄により、何らかの方法で内声を充填する必要を生じさせ、結果として現在の弦楽四重奏を代表とする様々な室内楽様式が生まれたのだと言えるだろう。弦楽器を主、チェンバロを従とするトリオ・ソナタは、古典派では弦楽器だけの室内楽と、チェンバロを主、弦楽器を従とする室内楽にはっきり分かれた。
  • レポート 芸術学 バロック 通奏低音 室内楽曲 古典派
  • 550 販売中 2005/07/21
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  • 日本古典文学の現代的意味 
  • 今回、講義を受けて、私達の生活の中で、最も身近に使われている、言葉というものに対して、記号論の立場からアプローチしてみるという視点を持つことができたわけであるが、その集大成として、いろは歌について考えてみたい。いろは歌は、平安時代末期に流行した、七五を四回繰り返す今様という歌謡形式に従って、日本語を構成する47文字すべてのかなを、一字一回ずつ使って作るという制約の下にもかかわらず、しっかりとした内容を持っているもので、日本の古典文学が最も誇るべき歌なのではないかと思う。いろは歌を記した現存最古の文書は1079年に書かれた「金光明最勝王経音義」であるが、作者は明らかになっていない。 いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす というもので、当時は清濁の区別が無視されていたことを踏まえて、濁点を補って漢字かな混じりに直すと、 色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ    酔ひもせず となる。解釈してみたい。花は色鮮やかに咲いても、いずれは散りゆくものである。そのような私達が生きているこの世の中で、いったい誰が不変でありえようか。いや、不変な者などいないのだ。すべての存在には理由があるようなこの世界を、また一日生きぬいて思う。儚い夢など見るべきではないのだと。そんなものに酔いしれてはいけないのだと。つまり、世の中に、決して変わらないものなどないのだから、永遠を願って、夢をみることなどには意味がないのだとしているのである。一言で言ってしまえば、この世の無常を訴えているのだ。このような無常感は、平安時代末期の人を強くとらえていたもので、この時代の、みやびできらびやかな生活の陰には、いつもこのような無常観が根底にあり、これがあることによって、限りのある人生という認識のもと、光の部分も逆に輝きをましたのではないだろうか。
  • レポート 日本文学 古典 記号論 かな
  • 550 販売中 2005/07/30
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  • 国語科指導法 古典教育
  • 小学校におけるこれまでの古典の指導は「易しい文語調の文章を音読し、文語の調子に親しむこと」であった。しかし、これを目標にした授業が定着していたとはいいにくい。この理由として、学習目標がわかりにくく、到達目標が明確でないということがあげられる。どこまでやればよいのか、どのように発展させればよいのかということがわかりにくかった。特に、「親しむ」ということの到達目標は極めて曖昧である。 今回の学習指導要領の改訂で、「伝統的な言語文化に関する事項」として、「親しみやすい古文や漢文、近代以降の文語調の文章について、内容の大体を知り、音読すること」という内容が示された。「文語の調子に親しむ」というよりもわかり易くなっている。 古典指導の意義について、「ある時代背景のもとで、人々が何を見、何を考え、いかに生きたか、というさまを、心の記録である文学作品を通して読み取ること。それが結局は、現代という状況における自分たちの生き方を観察し考察する目を養うことにもなるのである」と長尾高明氏は述べている。国際化の進展に伴い、生活や文化も多様化している。だからこそ、古典指導の意義をとらえ、古典指導は重要視されるべ
  • 古典教育 古典教育の今後 国際化 古典教育の展望
  • 550 販売中 2009/10/05
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  • 古典と西欧との差異からみる舞踊の本質
  • はじめに  舞踊は人間が言葉を有する以前から生活の中にあった。そして信仰と結びついて舞踊が発生したのは世界共通の事実。しかしそれぞれの民族によって長い歴史と共に大きな差が生じたのである。  大正元年、帝劇に招かれたイタリア人教師ローシーによってバレエはもたらされた。バレエ伝来から約100年経つが、これまで幾度かのブームを経て、今またこの芸術の人気が高くなってきている。今日の日本では、遥か千年以前の古代の舞楽、中世の能、狂言、近世の人形浄瑠璃、歌舞伎、そして日本舞踊と各時代の芸能が現代の演劇、舞踊とが共存しているが、その中において見事バレエも舞踊文化の一端を担うことができていると言える。これは他国にはあまり見られることではない。西欧が前代の様式を壊して進化していく変遷であったのに対して、日本の芸能は新旧交代することなく、互いに影響し、多岐に分裂していくという形をとってきた。アジア東端の島国である日本は、それらを独自の文化として成長させてきた。ここでは古典芸能の集大成ともいえる日本舞踊と西欧の舞踊クラシックバレエとを比較し、共通点・相違点から舞踊の本質を本論のテーマとしたい。 1、衣装による表現  全ての舞踊において切り離すことのできないものが衣装である。衣装は役柄の強調、感情の表現という視覚的なポイントにもなっていると共に、夢幻美の世界を創り上げる鍵にもなる。バレエ衣装の象徴的なものが「チュチュ」。これは純粋な肉体の律動の表現を妨げないことを第一の目的とした衣装である。バレエが誕生した頃は動きも少なかったので、釣鐘型の長いスカートで踊られていたが、バレエの技術の発展と共にスカートは短く軽いものに変容していった。そして19世紀半ばの作品、「ラ・シルフィード」や「ジゼル」のような超自然の世界のヒロインにふさわしい長い膨らんだスカート形の衣装(ロマンティックチュチュ)が登場した。
  • レポート 芸術学 バレエ 日本舞踊 舞踊 身体表現
  • 550 販売中 2006/01/14
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