連関資料 :: 古墳

資料:9件

  • まとめ「古墳時代の生業と社会―古墳の秩序と生産・流通システム―」
  • 学史的意義  古墳時代中期から後期にかけての古墳の秩序変化とその解釈をその基礎として、当該期に於ける生産と流通のシステムの変化、およびそれと生業のあり方について検討した。生産・流通方面の研究はこれまで個別分野ごとに深められ、優れた成果を数多くあげてきたが全体として捉えようとした作業は少なく、それらを総合して論じたこの論文はひとつの方向性を示したといえる。 中期古墳の秩序    A型:大王墳のある墓地での同時期の古墳群の群構成   類A型:A型に準ずる大形古墳群の構成 B型・C型:政治的まとまりがあると推定する特定地域の複数の古墳群からなる群構成でもとも数多く広範囲に分布している 前期後半(3・4期)段階で急激に増加した王権傘下の首長層を明確に上下に序列化し再編成したものが中期古墳の秩序。大王を頂点とした畿内有力首長層を中心とする、限られた数の大首長層が全国数多くの中小首長層を政治的影響下に置いた支配秩序の到達点を反映しているもの。 中期段階の生産・流通システム 特徴? 王権の支配にとって必要な威信財他の重要物品は畿内(石棺など一部畿内周辺)で集中的・独占的に生産された 特徴? 各種の工房(生産遺跡)は特定の場所に集中するのではなく、大和・河内を中心とする畿内一円に、分散的に存在している 製品によっては生産に適した立地条件があり、それが生産の場をある程度規定している場合がある。→しかし分散の理由はそれだけではない 特徴? 一つの工房の製品はかなり限定されていて、同一ないしは同質の素材の製品か、特定の種類の製品を作っていたと推定される。
  • レポート 史学 生業 流通 古墳
  • 550 販売中 2006/04/17
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  • 古墳が示す丹後地方
  • 京都府丹後地方には巨大な古墳、遺跡が数多く存在している。また、製鉄所跡や古墳群も発掘されている。これらのことから、以前から言われているように丹後地方にはかなりの権力を持った勢力があったのではないだろうか。  数ある古墳の中で特に有名なのが丹後三大古墳と呼ばれている銚子山古墳、神明山古墳、蛭子山古墳である。特に銚子山古墳は全長が198Mあり日本海側の前方後円墳としては最大である。神明山古墳は全長190Mと銚子山古墳についで二番目の大きさである。また、銚子山古墳は京都府網野町に存在するのだが、隣の弥栄町黒部にも銚子山古墳と呼ばれる古墳が存在する。これらを網野銚子山古墳、黒部銚子山古墳と区別して呼ぶ場合もある。ここでは網野銚子山古墳を銚子山古墳と呼ぶことにする。
  • レポート 史学 古墳時代 丹後 古墳
  • 550 販売中 2006/07/09
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  • 地域における古墳時代の様相
  • 1 はじめに  古墳が発生した時期は確定できないが、遅くとも西暦4世紀初めには畿内とその周辺の地域には出現していた可能性が強い。その古墳は、7世紀まで築造されていく過程で多様な変遷を解けた。墳丘の形態をはじめ内部主体の構造と副葬品の組み合わせは、伝統的な様相にくわえて、そこにたえず発展的な新しい要素が吸収されて生まれた文化の動態をしめしていると思う。  それはまた古墳被葬者の歴史的な、社会的性格の表明であると理解する。古墳の変遷の意味するものは埋葬観念の変化であり、社会的伝統の、ある意味での否定であり、それは根本的には被葬者の権威の変化にも帝王する現象である。少なくとも古墳はが、首長と民衆との政治的な絆の一表現であるとすれば、刻々と変わり行く古墳の姿は、そうした社会的関係の反映と見て差し支えることができないである。 2 古墳時代の流れ  古墳時代は、畿内を中心に考えると3世紀後半から4世紀初めにかけて始まり、7世紀後半には終ったと考えられていた。この時期,北海道と琉球列島には別の文化があり,日本列島には三つの文化が併存していた。日本列島の各地に村を幾つか集めたくらいの小さな「クニ」がたくさんあった弥生文化から,統一的な中央集権が一応成立する律令国家誕生にいたるまでのさまざまな社会の変革をしたのが古墳文化ということもできるだろう。古墳と呼ばれる塚をもつお墓が各地に作られた。前方後円墳と呼ばれるお墓が日本列島の古墳文化の特徴である。  弥生文化の後半には,東北南部から九州北部にいたる日本列島の大部分の地域に小さな「クニ」が続々と生まれて,群雄割拠の状態が生じ,武力解決を含む争いが各地に繰り広げられた。それぞれのクニには王と呼ぶべき首長がいて,その首長はクニの軍事的・政治的支配者であるとともに神と人々をつなぐ宗教的な権威をもっていたと思われる。
  • レポート 史学 日本の歴史 古墳時代 地域
  • 550 販売中 2006/01/19
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  • 東北地方における古墳時代須恵器生産の問題
  • 期末レポート 「東北地方における古墳時代須恵器編年の問題-6世紀の須恵器を中心に-」                           はじめに 東北地方における古墳時代の須恵器生産は宮城県仙台市の大連寺窯跡から開始されている。その時期は5世紀の末とされ、日本における須恵器生産が開始されたとされる陶邑窯跡群を指標とする田辺昭三氏の編年案のⅠ期TK216型式に相当する。(以下、仙台市金山窯跡、福島県泉崎村泉崎窯跡、同相馬市善光寺窯跡群と続く。)ここからもわかるように東北地方における古墳時代の須恵器窯跡は南部の宮城県と福島県に分布が集中する。(渡邊1993)それは、これらの地域が東北地方の中に先駆けて須恵器生産を開始するだけの政治的土壌が存在していたことの一つの証明ではないだろうか。古墳時代の土器である土師器とは異なり、その生産には政治的な動向も窺い知る事が可能な須恵器の性格からもこの分布の偏在は重要である。さて、東北地方の古墳時代の須恵器窯跡をその年代順に並べてみると一つの事実が判明する。それは、東北地方における6世紀の須恵器窯跡が存在しないということである。(斉藤1995 )前後する5世紀の窯跡としては先述した仙台市大連寺窯跡群、同金山窯跡、泉崎村泉崎窯跡、7世紀には相馬市善光寺窯跡群が存在する。しかし、ポッカリと穴が開いたように6世紀代の窯跡は現時点では見つかっていない。ここから推定できることは、この時期に東北地方の須恵器窯業が衰退し、須恵器生産が減少、もしくは皆無だったのではないかということ。つまりは、この時期の出土須恵器の大半が移入品であるということである。そして一つは、窯業遺跡がまだ発見されていないだけで、5世紀から後続する窯跡が存在しているということ。しかし、東北地方6世紀代の須恵器に移入品が多い点から仮に窯業遺跡が今後発見されたとしても活発な生産は行っていなかったと仮定してみたい。しからば今回のレポートでは東北地方における須恵器編年について、東海地方窯跡出土須恵器を用いて検討してみたい。もちろん、生産地を正確に特定するには胎土分析を行う必要がある。しかし、現実的に極めて困難であり、今回は、技法等特徴がある窯跡出土須恵器との比較検討からの整理作業が妥当と考えられる。そこではじめに現在まで行われてきた東北須恵器研究について編年研究を中心に振り返る。その後、空白の6世紀を中心とした東北地方における古墳時代須恵器編年の再検討に入りたいと思う。 東北古墳時代の須恵器の研究史 東北地方の須恵器研究は、他の東北地方古代史研究の例に洩れることなく蝦夷問題と深く関わる時代が長かった。(倉田・坂詰1967)以下では便宜上年代順に研究成果を概観していく。東北のおける須恵器研究のはじまりは古く、江戸時代の著された『塩松勝譜』という書物での、仙台市台の原・小田原窯跡の紹介がそのはじまりとされる。もっとも、この時代の須恵器への関心は学術的な性格よりも好事家の収集目的によるものであり、研究とは呼べるものではなかった。この現状は全国的なもので大正時代に入るまで須恵器は研究者の間でそれほど関心を持たれることはなかった。 大正年間になり、郷土史の隆盛とともに須恵器に対する関心も高まっていった。それに伴い東北各地での窯跡群の発見、発掘調査が相次いだ。1922年、岩手県史蹟調査員の小田島禄郎が岩手県瀬谷子窯跡鶴羽衣台地区の調査を行い、翌年の調査と合わせてその結果を『古瓦遺跡と鶴羽衣舘址』として報告した。その後、この瀬谷子窯跡を喜田貞吉が再調査を行い、その年代に関して平安前
  • レポート 史学 古墳時代 須恵器 流通
  • 550 販売中 2007/07/02
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