日本の戦争文学(太平洋戦争当時)の動向について概要をまとめました。付随する課題として火野葦平『麦と兵隊』の感想文があります。
一.日本における戦争文学
一九三一年九月一八日に発生した柳条湖事件を皮切りに日本は戦争への道を歩んだ。社会の混乱を通じて日本文学はどのように変化していったのだろうか。
戦時下の世となる前の昭和初頭、日本の文学界はモダニズム文学とプロレタリア文学のふたつの思潮が占めていた。大正末期、関東大震災の辺りからヨーロッパの芸術思潮が影響を及ぼし始め、新感覚派、新興芸術派といった文壇が生まれた。横光利一の『頭ならびに腹』はその代表例である。一方で、一九二八(昭和三)年に全日本無産者芸術連盟が結成され、文学をはじめプロレタリア芸術の運動が進められた。その機関誌「戦旗」には小林多喜二の『蟹工船』(昭和四)や徳永直の『太陽のない街』(昭和四)が掲載された。その後プロレタリア文学運動の中心は一九三一(昭和六)年に日本プロレタリア文化聯盟へと移るものの、プロレタリア文学を芸術と捉えるか、あるいは階級闘争に向けての大衆感化の手段として捉えるかの考え方の違いで組織内の対立が多発し、日本のプロレタリア文学は衰退し、転向文学へと変化していった。転向文学の代表作としては、島木健作の『癩』や中野重治の『村の家』が挙...