東洋史Ⅱ

閲覧数1,224
ダウンロード数7
履歴確認

    • ページ数 : 3ページ
    • 全体公開

    資料紹介

    資料の原本内容

    殷が考古学的に証明されている中国最古の王朝である。殷王朝は祭政一致の国家であり、文字を発達させ亀甲や獣骨に卜占の内容を記し、政治や農業の吉凶を占った。現代において卜占は当時の文化や情勢を読み取る資料となった。このとき使われた文字である甲骨文字は今日の漢字の起源となり、後に東アジア世界に漢字文化圏を形成した。また青銅器が使われ生産技術が向上した。

    殷周革命により殷を討伐した周は神権政治を行い、血縁に密着した封建体制をとり政治的安定を図った。また青銅器はほとんどが祭祀用で実用のものは少なく、農民は農具に石器を使うなど生産力は殷より下がった。また長江流域まで都市国家である植民地国家群が形成されるなど、時代が遡ったようであった。しかし中国史は西洋史のような階段状発展ではなく、行きつ戻りつの渦巻状発展を通して発展してきたといえる。また西洋史の階段状発展の概念にも疑問がある。

    暴君であった厲王を追放した後、周の力は衰え春秋戦国時代へと突入した。この時代では多数の「王」が出現し、春秋時代では楚・呉・越などが、戦国時代では「戦国の七雄」が有力であった。この時代では各王が富国強兵に努め中央集権化を図った。そのため商工業が発達、鉄器が普及しさらに水路の開発、開墾地拡大のため生産力が向上した。また文字が一般に普及し、いわゆる諸子百家が登場し、特に儒家は後の中国思想の中心、さらに後の東アジア圏に多大な影響を与えた。

    列強を倒し中国統一を成し遂げた秦王政は文字、度量衡、貨幣を統一し中国全体の発展に大きな意義をもった。また法家の李斯を登用し法治国家を作り上げ、中央集権的官僚制を確立し郡県制を敷いた。また自らを「皇帝」とした。その後中国で統一国家が形成されると、そのほとんどは秦の枠組みが踏襲される。秦は中国の礎を築いたといえる。

    しかし、史上初の農民反乱である陳勝・呉広の乱により秦は滅亡した。替わって項羽と劉邦が争い、劉邦が項羽を破り漢の皇帝となった。彼は中央集権化に失敗し郡国制を敷いた。前漢最盛期の皇帝である武帝は董仲舒を登用、儒教国家の再建を目指し、匈奴と争い西域地方を支配化に置き、東西貿易露を確保した。

    しかし武帝の死とともに前漢は衰退していき、周を理想国とする王莽により新が建国された。新では平等主義が唱えられ貧農に支持されたが、地主の反発にあい、さらに赤眉の乱により滅んだ。

    替わって後漢では光武帝が洛陽に都を置いた。しかし184年、太平道教団を率いた張角が黄巾の乱を起こし後漢は滅んだ。

    そして曹操、劉備、孫権が台頭しそれぞれ魏、蜀、呉を建国、争いあう三国時代に突入した。三国時代は、明代に晋の時代に書かれた歴史書である『三国史』や民間伝承を元に、小説である『三国志演義』が成立、世界中に広まった。

    中国古代は中国の礎ができた時代であり、政治的に中央集権化、皇帝独裁体制が、経済的に農業を基盤となり、思想的にアジア的思想の源が形成され、周辺国に多大な影響を与えた。そして中国を軸に東アジア文化圏が作られていった。

    清朝はアヘン戦争に負け、列強と開国の不平等条約を結び半植民地化、従属の過程へと突入していった。またそれに対する抵抗と中国変革への起点ともなった。日本は絶対的な存在としてきた中国の敗北により、洋学の研究が進み明治維新への基盤となった。

    アヘン戦争の賠償金による重税などにより太平天国の乱が起こる。洪秀全の起こした拝上帝教により起こされた太平天国は平等主義である「大同社会」思想とキリスト教の理念を軸に地上の楽園を目指し、また「滅満興漢」を謳い多くの人に支持された。しかし内部分裂や漢人官僚、清朝軍、さらに西欧軍らにより敗北した。清朝軍に援助した列強はさらに清への権益を増大することとなった。しかしながら、この乱は英仏の日本への影響力を弱め明治維新への基盤を作る時間稼ぎとなった。また近代中国の革命運動に大きな影響を与えることになる。

    その後壬午軍乱、甲申事変を通し朝鮮への支配権をめぐって対立することになった日本と清は1894年、ついに日清戦争を起こした。戦争の舞台であった朝鮮半島は日本と清に翻弄され、受動的であり、主体性がなかったといえる。これに勝利した日本は列強との条約改正により基本的な独立を回復し、台湾を得てアジア唯一の支配国家となり、賠償金を基礎に資本主義工業国へと移った。日本の植民地となった台湾は日本への抵抗、そして見捨てた清朝への独立として台湾民主国を建国、アジア初の共和国となったが2ヶ月で滅んだ。一方清朝は英仏よりも「蛮族」としてなじみの深い日本に負けたことにより政治体制の変革を求める変法運動が急速化していった。

    こうした動きにより起こった戊戌の新政は強固な保守勢力の抵抗により失敗し、改革は上からでは不可能であることを決定的にした。

    日清戦争の敗北や外国製品の流入や鉄道による失職などにより高まった民衆の不満により義和団の乱が起きた。義和団は「扶清滅洋」をスローガンとした。しかし八カ国連合軍や、始めは協力していた清朝も保身のために弾圧を命じたため義和団の乱は鎮圧された。結果として義和団議定書が結ばれ列強の中国における権益は増し、清朝は「洋人の朝廷」となった。しかし、義和団の乱を通して中国レジスタンスへの恐怖を列強に与え分割を阻止する要因となり、列強は中国を経済的に支配していくことになる。また民衆の帝国主義反対が明白化し、清朝に対する信頼を失い革命による倒満段階へと転換、辛亥革命へとつながった。

    アヘン戦争を契機として民衆反乱や清朝内部での西欧化運動、そして日本との戦争を通して清朝は滅亡していき、また中華民国建国への土台ができていった。中国の近代は激動の時代であったといえる。
    アヘン戦争・・・不平等条約→半植民地化→これに対する抵抗と中国変革への起点。

    日本:絶対的な存在としてきた中国の敗北→洋楽の広範な研究。

    太平天国・・・アヘン戦争の賠償金による重税・貧富格差→平等主義のユートピアを目指す(中国史において危機の時代たびたび登場し、民衆反乱の大きな力に。封建制など身分上の平等を謳うブルジョア的平等ではない)→列強に衝撃→清朝に援助、鎮圧→代償として権益増大

    日本:英仏の日本への圧力を弱める

    近代中国の革命運動に大きな影響

    洋務運動・・・沖縄問題、台湾出兵を契機に清朝では海防論、対日警戒論

    壬午軍乱・甲申事変・・・日本:清との戦争なしに朝鮮の支配権を確保できないことを認識

    日清戦争・・・日本の中国への蔑視意識の形成。日本、中国、朝鮮の近代世界における位置、相互関係のあり方を決定。

    中国:列強の勢力分割競争の主要舞台へ

    英仏よりも「蛮族」としてなじみの深い日本に負ける→政治体制の変革を求める変法運動が急速化

    日本:列強との条約改正により基本的な独立の回復。アジア唯一の支配的国家。賠償金を基礎に資本主義工業国へ。三国干渉により朝鮮と遼東半島をめぐってのロシアとの対立。台湾を植民地に→抵抗→台湾民主国(アジア最初の民主国)

    戊戌の政変・・・頑強な保守勢力に対抗する改革は上からでは実現不可能であることが確定。

    義和団の乱・・・北京議定書→半植民地としての地位を決定的に

    コメント0件

    コメント追加

    コメントを書込むには会員登録するか、すでに会員の方はログインしてください。