文学に「親しむ」あるいはそれを「消費する」という行為には、一定の経済的、精神的余力が必要不可欠だ。当時の人々がそれをすることに、先のような余力は無かったであろう。しかし、それでも彼らは文学を求めた。つまるところ、私がいちばん興味を抱いた点は、そのモチベーションが一体何であったのかというところだ。私が思うに、当時の人々はおそらく『文学』というものに、どこか「拠り所」や「逃避」といった要素を求めていたのではないだろうか。『混沌』を呈する時代であったからこそ求められた。そうした時代を生きた人々における、ある種の「心の襞」や「矛盾・葛藤」といったものに光を投じられればと感じている(論旨?)。私が本レポートにおいてとくに強調したい点はそこだ。
そして、なんと言っても『円本ブーム』がもたらしたもっとも意義深い特徴として、「文学(あるいは広く『書籍』一般)の『大量生産・販売(マスプロ・マスセール)』や、それに附帯する『大量宣伝(マスアド)』の手法を確立した点」が挙げられる。この点はあらゆる論調で声高に導き出される結論であり、極めて重要であることは確かなのだ(論旨?)。ただ一方で、ことさら『文学史』というフィールドにおいてこの意義についてはあまり扱われるべきではないと思うのだ。ブームがもたらしたいわゆる『功罪』における「功」の側面を論じる際には、是非とも『企業活動を支える産業上の地盤・体制の確立 ―“出版メディア”において』といったようなテーマで、社会科学のフィールド―分けても経済学的アプローチで語られて欲しいものである。
さて、文学史的観点にあっては、先述のような『功罪』を語るうえでも取り立てて論じるべきは、なんと言っても「罪」の側面に尽きると思うのだ 。実際上、ブームがどのような「害悪」をもたらしたかは後述のうえ、逐次考察を加えていきたいと思う(論旨?)。
はじめに
文学を「商品化」あるいは「大衆化」せしめた直接的ムーブメントとは、いわゆる昭和初年代 における『円本ブーム』にほかならない。『円本ブーム』のもたらした意義とは、つまるところ「日本の出版業を小工業から大工業へと 」させ、ひいては「現代の大衆社会状況に対応しうる出版の骨格 」を革新・整備させた点に尽きる。
現代社会においてこそ、われわれが広く「読書をする」という行為は至極当然なこと、かつとても『プリミティブ』なことである。しかし、『円本ブーム』以前における中での「文学作品に親しむ」という行為一般が、得てして非常に高度な『文化的活動』であった点は否めない。『作家』と呼ばれる者たちは、総じて魅力的な精神性を兼ね備えた稀有な存在と言える。その者たちが思索をめぐらせ、時に「美しく」、どこか「芯」の通った言葉で『作品』を紡ぎ出していくといったある種の『魂』を創出する作業とは、崇高あるいは厳格そのものである。こうしたペーソスを経たうえで生み出された「徳の高いもの」に触れられる―それはブーム以前においては、ごく限られた階層間の『特権』であったことは間違いない。そして実際にブームを迎えたなか...