知里幸恵は、アイヌ民族ではじめてユーカラやカムイユーカラなどのアイヌ文学(口承)を文字表記し、アイヌ研究に多大な貢献をした人物である。アイヌ民族は北海道開拓以来抑圧・差別・貧困という厳しい苦難にさらされて来たが、そのような時代に病に冒されながらもアイヌ文化の記述に励んだ知里幸恵の生涯はどのようなものだったのだろうか。
幸恵は1903(明治36)年6月8日、北海道登別にアイヌの豪族ハエプト翁の孫として生まれている。父知里高吉は早くから時勢をみきわめ旧習を改めた。母ナミも幌別村の大酋長カンナリ翁の係累であり敬虔なクリスチャンである。母は姉(金成マツ)と函館のキリスト教伝導学校で日本語や英語を学んでいる。高吉が進歩的な人物であったことは、日本への同化ともいえる。一般のアイヌの家がまだカヤ作りであるころ、床の間、書院窓付きの和風の家を建てていたようである。また、伯母金成マツと母ナミは、当時としては破格の教育を受け、英国の宣教師たちともかかわりが深い、このような父の「和風」と母の「洋風」の間に生まれた幸恵は、この「和」、「洋」、そして「アイヌ」という三つの言語と文化が混在する環境で育った。
幸恵が6歳(1909年)の秋、幸恵は旭川近文のキリスト教公会堂伝道所に勤めていた伯母マツの養女となり、祖母モナシノウクと3人の生活に入った。またこの年には、アイヌ言語学者として知られる弟真志保が生まれている。
12歳(1916年)の3月、尋常小学校を優秀な成績で卒業した幸恵は北海道庁立旭川女学校を受験するが、不合格であった。これは彼女がアイヌでありクリスチャンの娘だったことが原因であったようである。
「知里幸恵と『アイヌ神謡集』」
知里幸恵は、アイヌ民族ではじめてユーカラやカムイユーカラなどのアイヌ文学(口承)を文字表記し、アイヌ研究に多大な貢献をした人物である。アイヌ民族は北海道開拓以来抑圧・差別・貧困という厳しい苦難にさらされて来たが、そのような時代に病に冒されながらもアイヌ文化の記述に励んだ知里幸恵の生涯はどのようなものだったのだろうか。
幸恵は1903(明治36)年6月8日、北海道登別にアイヌの豪族ハエプト翁の孫として生まれている。父知里高吉は早くから時勢をみきわめ旧習を改めた。母ナミも幌別村の大酋長カンナリ翁の係累であり敬虔なクリスチャンである。母は姉(金成マツ)と函館のキリスト教伝導学校で日本語や英語を学んでいる。高吉が進歩的な人物であったことは、日本への同化ともいえる。一般のアイヌの家がまだカヤ作りであるころ、床の間、書院窓付きの和風の家を建てていたようである。また、伯母金成マツと母ナミは、当時としては破格の教育を受け、英国の宣教師たちともかかわりが深い、このような父の「和風」と母の「洋風」の間に生まれた幸恵は、この「和」、「洋」、そして「アイヌ」という三つの言語と文...