1.<異>が当たり前という感覚
「逆統合保育」というタイトルを見たとき、私には統合の逆、即ち普通教育と支援を必要とする子ども(以下障害児とまとめたい)の教育との統合、摺り合わせをせず、それぞれが適した形で教育を受けるものというイメージが浮かんだ。しかしこの「逆」が、健常児の場に障害児を近づけるのではなく、障害児側の保育環境に健常児を参加させるという、従来とは逆方向の統合保育を意味するのだと分かったとき、あまりに思い切った発想の転換であると、正直呆気にとられてしまった。また、「<異年齢・異能力・小集団>の保育」という言葉が強く眼についた。
統合という形は本流へ近づけようとするため、どうしてもメインストリーミングの色が出てくる。これは、全ての子どもを同じように包み込み、個々に教育的ニーズが異なることを言わずもがな当然のこととし、必要なサポートを講じていくインクルージョン的発想とは異なるものである。逆統合という心持ちで教育者が一人一人と向かい合ったときに、異年齢・異能力・小集団の場で個々の子どもが意識され、別々の違った人間として彼らと関わるという態度が生まれたのではないだろうか。
やはり逆統合保育も、旧来の体制の中から発想されたものである以上、健常と障害の2者を区別する見方からスタートしている点に変わりはないだろう。しかしその保育では、両者を分離して捉えて対応する姿勢はとられていないのだという。また、無意識に我々が引いていた両者のラインも折に触れ見直されることになるのだという。
1.<異>が当たり前という感覚
「逆統合保育」というタイトルを見たとき、私には統合の逆、即ち普通教育と支援を必要とする子ども(以下障害児とまとめたい)の教育との統合、摺り合わせをせず、それぞれが適した形で教育を受けるものというイメージが浮かんだ。しかしこの「逆」が、健常児の場に障害児を近づけるのではなく、障害児側の保育環境に健常児を参加させるという、従来とは逆方向の統合保育を意味するのだと分かったとき、あまりに思い切った発想の転換であると、正直呆気にとられてしまった。また、「<異年齢・異能力・小集団>の保育」という言葉が強く眼についた。
統合という形は本流へ近づけようとするため、どうしてもメインストリーミングの色が出てくる。これは、全ての子どもを同じように包み込み、個々に教育的ニーズが異なることを言わずもがな当然のこととし、必要なサポートを講じていくインクルージョン的発想とは異なるものである。逆統合という心持ちで教育者が一人一人と向かい合ったときに、異年齢・異能力・小集団の場で個々の子どもが意識され、別々の違った人間として彼らと関わるという態度が生まれたのではないだろうか。
やはり逆統...