手話は新たにたくさんの表現を覚えなくてはならない為、中途失聴者や老人性難聴者にとっては相当な努力が必要である。それに対して要約筆記では皆が知っている日本語を使う為、誰でも最初から楽に会話が出来る。このメリットは非常に大きいものであろう。
それなのに「聴覚障害者のコミュニケーション」イコール「手話」と考えられているのは何故なのか。それは「見栄えが良い」「出来ると格好いい」というような理由の為に手話の方がマスメディアで取り上げられ易いからであろう。それに対して要約筆記は黒い格好で手袋と偏光グラスをし、必死になってOHPに文字をひたすら書き続けている、という状態であり、見栄えの美しさからは程遠い。けれど平成八年度の厚生省の調査では『手話によるコミュニケーション』が「十分に出来る」聴覚障害者はたった14.1%にしかすぎず、「十分に出来ない」「出来ない」が残りの85.9%を占めているのが現状である。この結果から要約筆記が必要であることは明らかであり、また、要約筆記が世間にもっと知られるようにする為や、高い専門技術を持った要約者筆記を増やす為にも、要約筆記に手話通訳士のような専門の資格をつくるべきだと考える。
要約筆記ボランティア
「要約筆記ボランティアをしています。」そう言ってもほとんどの人が
「……要約筆記って何?」
という反応をする。福祉社会学科の友達でさえ、同じ反応の事が多いのである。それはつまり、要約筆記の社会的認知がそれだけ低いことを表しているのであろう。けれどそれは誰でも知っている手話に比べて、需要が少ない訳では決して無いと思う。
手話は新たにたくさんの表現を覚えなくてはならない為、中途失聴者や老人性難聴者にとっては相当な努力が必要である。それに対して要約筆記では皆が知っている日本語を使う為、誰でも最初から楽に会話が出来る。このメリットは非常に大きいものであろう。
それなのに「聴覚障害者のコミュニケーション」イコール「手話」と考えられているのは何故なのか。それは「見栄えが良い」「出来ると格好いい」というような理由の為に手話の方がマスメディアで取り上げられ易いからであろう。それに対して要約筆記は黒い格好で手袋と偏光グラスをし、必死になってOHPに文字をひたすら書き続けている、という状態であり、見栄えの美しさからは程遠い。けれど平成八年度の厚生省の調査では『手話によるコミュニ...